2008年6月1日
「大地を鎮める石」
ぶらりでかけました、三重県。
大阪から近鉄(急行)にて名張駅へ。
途上の車窓からの景色も緑に満ちて、
趣きある建物、石垣、瀟洒な近代建築など素敵な光景も垣間見ます。
少し開けて、名張駅。
名張駅西口から三重交通バスに乗車し、下比奈知バス停で下車。
名張駅から山の方へ向かった、と言いましょうか。
さらにさらに奥へ進めば、比奈知ダムなどもあります。
下比奈知のあたりは多少新しい住宅も見受けられますが、
林や水田の緑も映えます。
バスを降りて、来た方向を振り返ると地名表示が。
わかりやすい。
比奈知の地名が 「比那名居」
の比那に通じるでしょうか。
比奈知川、比奈知ダムなどがあります。
表記が奈と那で違いますから、追究の余地はありますね。
まぁ、「な」の音を担う漢字は少なく、
意味よりも音優先で当て嵌められたりするなど、
那と奈に意味上の違いはあまり発生しないようですが。
今回の目的地への案内表示。
ここを折れると名居神社の参道脇、二の鳥居前に出ます。
ここを折れずにさらに進んだ路地へ入った場合
一の鳥居前に行き着きますが、こちらは案内表示が無く、
ダイレクトに目指すのはちょっと難しいかも。
そんなわけで、この写真は帰りに撮ったのですが、
せっかくですから最初に掲載。
名居神社の一の鳥居です。
燈籠が立ち並ぶ参道を進みます。
拝殿手前
左手には手水舎、
右手には先述の案内表示の路地があります。
拝殿
「日本書紀」によれば推古七年に大和地方が
中心の大地震があって諸国に地震の神が
祭られた伊賀では当名居神社がそれであろう
「ナイ」は地震の古語である
江戸時代は国津大明神と稱し比奈知川
上流に散在する国津神社の惣社であった
祭神は
大巳貴命(おおなむちのみこと)
少彦名命(すくなひこなのみこと)
天児屋根命(あめのこやねのみこと)
市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)
事代主命(ことしろぬしのみこと)
蛭子命(ひるこのみこと)
明治四十一年には興玉神社及び
境内社七社を合祀している
(「巳」は誤記?)
地震神(ナイノカミ)を諸国に祀らせたとする日本書紀を引き、
ナイ(ナヰ)の音の符合する名居神社は
そんな地震神を祀った神社の一つと考えられています。
固有の名称を持った神ではなく、
風神とか豊穣神とかの一般的な名称だそうです。
しかし、御祭神の中にも地震を扱いそうな神様は特に見当たりません。
なゐの地震が地に通じ、
地祇すなわち国津神の大己貴命が祭神になったのかな。
広辞苑で
「ない(ナヰ)」 を見ると、
「(ナは土地の意。ヰは場所またはそのものの存在を明らかにする意)
地。転じて、地震」
とあります。
東方的には、名居守が地震の神の代表格で、
各地に祀られた地震の神の一翼が比那名居だったり、ってとこでしょうか。
名居守は幻想郷に祀られ、その分社のようなイメージで
名居系の神社が各地に存在したとか、そんなところで。
その一つ、比那名居は例えば比那の地の名居だったり。
そう考えると、比奈知の名居神社が
やはり比那名居に近いと考えられますかな。
例祭は十一月三日。
本日は閑散と、人っ子一人無し。
周辺も、比奈だけにほんのり鄙びているし。
交通量は狭い道の割には多いけど。
本殿
境内にある山神社
「山神」と刻まれた石碑が多数並んでおります。
さて、次は下比奈知バス停から再び三重交通バスに乗り、
更に山の方へ向かいます。
5分ほどバスに揺られ、上比奈知バス停で下車。
更に鄙びました。
山の方へ向かったので当然と言えば当然ですが。
バスを降りて、さらに少しだけ道を歩きますと、
こちらは分かりやすく御鎮座。
国津神社です。
名居神社が近隣の国津神社の惣社ということで、
ついでながら国津神社の一つにも参ってみました。
参道右手に…鳥居の上半分が。
旧第一鳥居永久保存
調べたところによると、
国津神社は明治43年に名居神社に合祀されましたが、
昭和29年に旧社地に社殿を造営し合祀前の状態に復元、
昭和60年には旧氏子の総意で分祀されたのだとか。
その頃には道路整備なども既に為されて、
一の鳥居は元の通りには置けなかったとかかな。
祭神
大巳貴命(おおなむちのみこと)
事代主命(ことしろぬしのみこと)
蛭子命(ひるこのみこと)
市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)
あれ、ここでも 「巳」 ですね。
三の鳥居と拝殿
階段付近でちっちゃい蜂みたいのが
多量にブンブン言ってたので
ビクビクしながらお参りしました。
三千院で蜂が服の中に入り込んできた時のトラウマが…
まぁ、それは措いておいて、
国津神…
地祇ですから、大地、地震、そして地子に通じるとか。
比那の名の由来には、島根の比那神社も想像されますが、
こちらはイマイチつながらないんですよね。
比那神社の比那鳥命が天孫降臨つながりで
経津主にリンクすれば、鹿島・香取や大村にもつながりますかね…
↓あとは東方と関係ありませんが…(上も関係薄し?)
日本一古い「双仏石」
一つの石に双つの仏像を並列にしている石仏で、
阿弥陀如来と地蔵菩薩。
このタイプは「比奈知型石仏」と名付けられているのだとか。
双仏名水
涸れてますが…
池の左手に亀、右手には蛙
って、この蛙はさすがに市販っぽい気が…
境内の市杵嶋姫神社。
文字がかすれて判読困難のため、たぶんですが。
小さなお社といくつかの石碑。
バス停に戻りましたの図。
水田、山林、河川に集落。
こちらは下比奈知よりも鄙ですな。
車もほとんど通りません。
バスも本数が少ないです。
のどかです。やすらぎ。
名張川に架かる大昭橋と…誰?
写真の方向が名張川上流方向。
辿って行くと比奈知ダムに行き着く…たぶん。
さて、バスが来ましたので名張駅西口に戻ります。
名張駅から近鉄線で青山町駅へ。
青山町駅から南東方向へまっすぐ進み、
ちょいと見渡すとこの碑があります。目印。
この道を進むと行く手に燈籠が見えてきます。
伊賀市阿保の大村神社です。
阿保は「あお」と読みますよ。
参道
鳥居をくぐると気温が下がり、涼しい。
まさに神域。
清浄な空気に浸った気分になれます。
石段を登りきると、本殿を囲むように建つ参籠所や社務所が見え、
北向き(北北西くらい)の拝殿に出会えます。
このあと神社の方に伺った話では、
なぜ北向きかは明らかではないようですが、
鹿島神宮も北向きなのだそうです。
鹿島神宮が北向きなのは北辰信仰との関わりも言われたりしてますね。
鹿島と言えば、常陸(ひたち)。
東の、太陽が昇る、日立。
とすると、伊勢神宮は天照のお膝元、この三重の地は
さしずめ日中(ひなか)?
そんなわけでヒナか?
そういえば、授与所では大村神社の神札とともに
伊勢か天照かちょっと忘れましたが、そんな神札も同等に並んでいました。
拝殿
御祭神
主神: 大村の神
配祀神:
武甕槌神 経津主神 天児屋根命
合祀神: (多数のため、略)
御由緒
当社は延喜式神名帳所載の古社で、御祭神、大村の神は
第十一代垂仁天皇の皇子(息速別命)で 伊勢神宮を
奉鎮せられた倭姫命の弟君にあたる。(中略)
相殿奉祀の武甕槌神・経津主神は神護景雲元年に
常陸下総国より三笠山御遷幸の途次に奉斎。共に
奉斎された要石は土地の鎮め、地震除災の信仰を
あつめている。
大村の神が、東方では「大村守」ですね。
比那名居が遣えるのが名居で、
名居が遣えるのが大村です。
要石社
要石は鹿島神宮のものが良く知られておりますが、
鹿島の武甕槌命・経津主命が奈良の都の春日大社に祀られるその道中、
大村神社に休泊し、要石を奉鎮したと伝えられています。
要石社は大村神社拝殿の右手。
写真奥の屋根は宝殿(旧本殿)の建物。
重要文化財。
春日造に似る一間社入母屋造。
要石社背後の渡り廊下からじっくり眺めたいところ。
写真右手から廊下に上がれそうではあったけれど
そうして良いか、神社の方に伺うのをこの後すっかり忘れてしまった。
残念。
要石
ゆるぐとも よもやぬけまじ 要石 大村神の あらんかぎりは
鹿島の要石にまつわる、ゆるぐとも よもや抜けじの 要石 鹿島の神の
あらんかぎりは、に酷似。
鹿島様が直接もたらしたものなので、当然ですが。
神社の方のお話では、東は鹿島の要石、西は大村の要石が
長年地震除の役割を担っていたそうで、
江戸の頃になると当時の震災の影響などで他の各地にも
要石が祀られる様になった、と掻い摘んでご説明下さいました。
これだけ鹿島と密接ですし、
しかもZUN氏はキャラ☆メルでの風神録インタビューで
武甕槌神にも言及されてますから、
鹿島も調べる必要があるかもしれませんね。
要石社左手の水かけなまず
要石社右手の水かけなまず
とぉーれとっれ ぴぃーっちぴっち なまず料理〜♪
さくやー、なまず料理まだー?
この後、授与所にて神社の方から貴重なお話を
いろいろ拝聴できました。多謝です。
大阪から来た旨を伝えると、
県外でも大村神社が知られているのかと
少し驚いてはりました。
「いやぁ、たぶんこれからも何組かそんな人間が
参拝に来るんじゃないでしょうか。東方の影響で。」
なんてことは申しませんで、
とりあえず一介の神社好きの体でお話させて頂きました。