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春風の
 
 [音楽]
 
 エンディングのテーマ。
 〜春風は桜を散らす風でしかない。
  寝ても覚めても、春風の事を疎ましく思うか。〜
 (曲解説より)
 
 この曲解説は、魔理沙 Good Endingの1つで幽々子が詠む(西行の)歌、
 春風の 花を散らすと 見る夢は さめても胸の さわぐなりけり
 をストレートに指す。
 春風が桜花を散らすは例え夢であっても心乱れてしまう。
 桜が散るのが嫌で、春風を疎んじるほどの桜ラブ。
 うふぇ〜。
 
 こんな歌も。(西行、玉葉和歌集)
 浮世には とどめ置かじと 春風の 散らすは花を 惜むなりけり

 【改訂用の備忘録】
 ・夢見草 … 桜の異称
 ・夢見月 … 陰暦3月の異称 (新暦の4月頃)
 ・夢見鳥 … 蝶の異称
 (広辞苑より)

 
 
さくらさくら 〜Japanize Dream...
 
 [音楽]
 
 スタッフロールのテーマ。
 〜童謡「さくらさくら」をイメージした曲です。〜
 (曲解説より)
 
 「さくらさくら」は童謡や小学唱歌とも日本古謡とも位置付けられる。
 原曲は箏曲(そうきょく)で、1888年刊行の箏曲集には「桜」という題で収載されている。
 さらにそのルーツは江戸時代の箏曲「咲いた桜」にあるとも言われる。
 「咲いた桜」…♪咲いた桜 花見て戻る ……♪
 「桜」…♪桜さくら 弥生の空は 見渡す限り…♪
 「さくらさくら」…♪さくらさくら 野山も里も 見渡す限り…♪
 とタイトルだけでなく歌詞も異なる。
 「さくらさくら」は1941年の国定教科書に初めて登場したとされる。
 実はこの頃は教科書によって「桜」の歌詞も混在し統一されていなかったが、
 1967年の指導要領で現在の「さくらさくら」の歌詞に統一された。
 「桜」の歌詞は「さくらさくら」の二番となっている。
 
 おそらく、このあたりを踏まえてのことであろうが、
 ZUN氏の言には
 〜さくらさくらは、良く唄われる童謡の中でも、
  群を抜いて日本風だと私は思っている。
  ただ、ひとつ気になることは、
  あの曲の曲名は「さくらさくら」だったのか、
  それとも「さくら」だったのか、
  はたまたもっと別名だったのか、思い出せない・・・〜
 (曲解説より)、とある。
 どうも知った上で書かれている節がある気がしてならない…。
 
 ・Japanize …「日本風にする、日本風になる」
 
 英題は、「夢は日本風に」。

 
 
咎重き 桜の花の 黄泉の国 生きては見えず 死しても見れず
 ZUN
 
 [歌]
 
 スタッフロールと共に現れる歌。
 ZUN氏オリジナル。
 
 ・ …「咎められる行為、過ち。罰されるべき行い、罪。非難されるような点、欠点」
 ・黄泉よみ)…「死後、霊魂が行くとされる所。死者の国。冥府。冥土。よみの国」
 
 罪深い桜の花が咲き誇る黄泉の世界は、生きて見える者は無く、死んでも見ることができない
 
 桜の「」とは、何であろうか。
 ここにも西行の歌が関わっている。
 花見にと むれつつ人の くるのみぞ あたら桜の 咎には有ける
 花見をしようと人が群がって来てしまう事だけが、惜しいことだが桜の罪なところだなぁ。
 京の春、大勢の人が花見にやって来て、桜のための折角の閑居が邪魔されることを嘆いた歌。
 この歌を聞いた桜の精が、どうして桜にがあるものか、と反論する「西行桜」という能がある。
 これらを踏まえると、「咎重き桜」とは桜自体に罪なところがあると解釈するものと考えられる。
 
 西行妖は花開くことが無い。
 (今回の騒動では、開花はしたが満開には到らなかった。通常は開花もしない)
 従って、人が大挙して花見に来てしまい風流が台無しとなる「咎」は無い。
 その「」の元となるものは、封印されるべきであったほど強大であった西行妖の存在と、
 花を犠牲とした封印と共に根元に眠る幽々子(生前)の能力であろう。
 は枷(かせ)となり、幽々子の転生を封じられた。
 しかし、幽々子は死を操る能力で人を冥府に誘い、冥界の住人を増やす。
 冥界は賑わうが、咎はますます重くなる。
 
 幽々子は死を操る能力を持つが、
 自身の復活は、自身に「死すべき者=生きる者」としての生を定める行為に当たり、
 死を操る能力とは真逆である上に、それを自分自身に行使するということで
 能力というか、存在の本質との反発があるため矛盾となり
 反魂の術が成功することはない。
 越えられないボーダーオブライフ。
 よって、咎は重ねられるばかりで、まるで熱力学のエントロピー増大則の様である。
 
 生きても死んでも見ることができないのは「西行妖の花が満開の状態の」黄泉の国か。
 我々の現実世界からは、黄泉の国ですら見ることはできない。
 また、霊夢たち幻想郷の人間が今回の様に
 生きたまま結界を越えて冥界に行っても("生きて"と"行きて"の掛詞?)
 我々や幻想郷の住人が死を迎えて冥界に赴いても
 西行妖が満開となることは決して無いのである。
 
 ところで、話を「黄泉」に戻そう。
 東方妖々夢ではこれまで、「冥界」「白玉楼」「あの世」などの表現はあったが、
 「黄泉」の表現はこの歌においてのみである。
 黄泉はもともとは漢語で地下の泉を意味する「黄泉(こうせん)」であった。
 古代の中国人は、地下に死者の世界があると考えて、そこを黄泉としたのである。
 黄は五行思想で土行で、だから黄泉は地下の泉である。
 日本にこの概念が輸入された時に、
 日本人がもともと考えていた死者の世界ヨミと結び付けられたと考えられている。
 古事記では「黄泉國」と記載され、
 イザナギ・イザナミと黄泉比良坂(よもつひらさか)の話が有名である。
 イザナギが変わり果てたイザナミ(&醜女s)から逃げ来た際には
 「黄泉比良坂の坂本に至りし時」(坂を駆け下りた)と記述があり、
 この頃というか日本古来の死者の国は、地下にあるわけではないと知れる。
 黄泉(よみ)とは地名を指し、島根県は出雲近隣にあったと地という説がある。
 まぁ、ここで出雲を出したのは「八雲」に繋げたいがための私個人的な布石ですが…。



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