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Extra / Phantasm // Acknowledgements & References

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人妖の境界
 
 [タイトル]
 
 Phantasm Stage のタイトル。
 冥界と顕界の結界を修復する能力を持つという妖怪、
 藍とかいう式神の主人だとかが仕事を果たさず寝続けているから
 冥界からは霊が顕界ツアーに遊び出でたり、
 キツネやネコが跋扈したりで迷惑千万。
 そういう迷惑な輩にはガツンと弾幕って仕事をさせねばならない。
 人間たちはまたまた冥界に赴く。
 そういえば、夜の冥界ははじめてだ。
 …
 彼女は気がついていない。
 あの妖怪に意見するのは
 人間を越えるほどの力を持つ者だということに。
 
 タイトルと共に以下の字幕も現れる。
 
 "Phantasmagoria."
 "She was also living on the border of Gensokyo."

 
 「変幻自在の幻想」
 「彼女もまた幻想郷の境界に棲む者であった」
 博麗神社は幻想郷と人間界の境の辺境に位置する神社である。
 霊夢と同様、八雲紫も幻想郷の境界に住むと言われるが、
 誰もその位置を特定できない。
 〜幻想郷の中でも、もっとも辺境にひっそりと棲む妖怪である。
  ここから、博麗大結界を見つつ暮らしている。〜

 (キャラ設定より)

 
 
三國に渡り妖異をなすが
 
 [字幕]
 
 Phantasm Stage タイトルと同時に現れる、
 四角形のグラフィックに刻まれている文字。
 
 Extra Stageの同項目参照。
 
 Extraで、
 ステージタイトルが「妖怪の式の式」=橙(中ボス)
 それと同時に表示される「三國に渡り妖異をなすが」=藍(ボス)
 だったことを受けると、
 Phantasmでは
 タイトルと同時に表示される「三國に渡り妖異をなすが」=藍(中ボス)
 ステージタイトルが「人妖の境界」=紫(ボス;境界を操る能力)
 をそれぞれ示す、ということか。
 
 突然話を変えて…。
 作家・小泉八雲は、ギリシア人の母とアイルランド人の父との間の子で、
 欧州で生まれ育ち、20歳で米国に渡り、40歳で来日し帰化。
 日本で作家活動を営み享年54歳。
 本名はパトリック・ラフカディオ・ハーン。
 帰化後の姓は妻・小泉節子の小泉、
 名は、島根県松江市に一時期在住していたことから
 出雲国にかかる枕詞「八雲立つ」にちなむと言われる。
 日本をこよなく愛し、和の心を尊び、音と神話に心惹かれた作家。
 民俗学者とも称される。
 「東の國から:新しい日本における幻想と研究」、「面影の日本」、
 「怪談:不思議な事の研究と物語」、「神国日本:解明への一試論」などの著作で知られ、
 また、怪談には、耳無し芳一、食人鬼、幽霊滝の伝説、ろくろ首、ムジナ、青柳物語、
 果心居士、雪女、他 有名どころが含まれる。
 
 小泉八雲の来歴は、欧州・米国・日本と、拡大解釈で「三國に渡り」と解釈でき、
 怪談などの作品を「妖異をなす」と見ることもできる。
 厳密には欧州内、ギリシア・アイルランド・フランス・イギリスに渡っているのだし、
 妖異をなしたのは日本でだけなので、拡大解釈にもほどがあるが…。

 
 
妖々跋扈 〜 Who done it.
 
 [音楽]
 
 Phantasm Stage のテーマ曲。
 〜妖々跋扈の裏バージョンです。
  曲は殆ど変化はありませんが・・・〜
 〜Whodunit フーダニットです。
  異国語に詳しくないためよく分かりませんが、
  Who did it? が正しい使い方みたいですね。
  いきなり最後に登場して、実はこいつでした、
  なんてのはあり得ない気もしますが。〜

 (曲解説より)
 
 というわけで、「妖々跋扈」についてはExtra Stage の方を参照して下さい。
 
 ・Whodun(n)it …「推理小説、推理映画、推理劇」
 
 Who done it?あるいはWho did it?から、と辞書にはある。
 別の辞書には、Who done it?が語源、としか書いていないケースもある。
 Who did it? →Who done it? →Whodunit. の変遷があるものと推測される。
 Who did it?が文法的に正しくてWhodidit.という語をこさえたとしても
 発音はどちらも変わらず区別できないため、
 区別するためにあえてWhodonit.としたのではないかな。
 まぁ、この辺はアバウトな解釈でも大丈夫だ。英語だし。
 
 さて、「推理小説」調に「誰がそれをやったのか?」と考えようにも
 「それ」にあたる犯行って何だろう?
 
 1.神隠し
 八雲紫の二つ名は「神隠しの主犯」
 物語中で神隠しを行った、というのではなく、
 昔話や神話、伝説、怪談の類で出てくる神隠しの正体としての妖怪、ということ。
 それらの話に残らないのは、境界を操るすきま妖怪として、
 目撃されるへまをしていないため。
 遥かなる時を経て、神隠し事件の真犯人が遂に現れる!(大部分時効)
 〜たまに幻想郷に人間が紛れ込むのも、紫が境界に揺らぎをつくったりするからである。
  人間は神隠しと呼ぶ現象も、結局神の仕業ではなく、
  この妖怪少女の仕業だと知ってしまったら、何の神秘性も失われる事だろう。〜
 (キャラ設定より)
 
 2.今回の騒動
 と言っても、最初から八雲紫が目的でExtra、Phantasmがあるわけで、
 Who done it?というほどではない。
 東方紅魔郷のパッケージイラストがフランドールのシルエットで、
 Extraステージで「U.N.Owen(unknown)は彼女なのか?」とシャレが効いていた所を踏まえると
 東方妖々夢のパッケージイラストが八雲紫のシルエットで、
 Phantasmステージで「Who done it?(犯人は?)」とまたも正体不明とかけたものか。
 
 3.妖々夢全体的な騒動
 八雲紫は西行寺幽々子と旧知の仲で、生前の幽々子も現在の幽々子も知っており、
 西行妖と幽々子の遺骸の関係も知っている。
 西行妖自体を、強力な封印が施されていてもなお危険な妖怪桜と認識している。
 そして、西行妖は広大な西行寺家の庭において唯一開花しない妖怪桜であり、
 桜好きの幽々子がそれを気に留めないはずはない。
 それこそ、持ち前の妖力と森羅万象の力とあやしげな術式と直観力で
 封印を解いてしまうことも、妖怪レベルの長い年月スパンで見れば考えられる。
 桜といえば、春眠暁を覚えず。
 そういう緊急事態の折に紫自身が眠っていることも(かなり)考えられる。
 冥界と顕界の間に生者と死者の行き来がないよう結界を張るのは当然だが、
 冥界の孤立は、亡霊の姫を頂点とし彼女を止める者がない世界の成立を意味する。
 結界を作らないならば、西行妖の封印を解くほどの大術式が外の世界にも大きな影響を及ぼし、
 異常を察知した何らかの力ある者が駆けつけ、反魂を阻害する安全装置となるはず。
 そう考え、幽明の境としての本来の役割を最低限担い、
 同時にフェイルセイフとしても働く、
 そこそこ能力のある者なら容易く上を飛び越えて行ける様な、
 不完全というか選択能のある曖昧な結界をこしらえたのではないだろうか。
 おかげで妖夢が春集めに幻想郷中を駆け巡ることが出来たのだが、
 仮に完全な結界だったとしても、例えば冥界の春を数十年備蓄するとか
 他にも手段がありそうだし、損と益の均衡を鑑みて。
 まぁ、この「3.」については私の妄想ですが。
 いずれにしても、すべての真相を知り説明できるのは、
 幻想郷世界では八雲紫ただ一人で、他の者は "Who done it?" と言うことしかできないのだ。
 幽明の境うんぬんのあたりは前に引いたのが60年以上前だったりすると
 本人もすっかり忘れ果てているかも知れないが。
 (なので、妖夢の話を聞いても「自業自得だわ」とか思ったりする)

 【改訂用の備忘録】
 難波弘之の曲に 「Who Done It?」 がある。
 余談ながら、mixi におけるZUN氏 (博麗神主) のプロフィールにて
 好きな休日の過ごし方が難波弘之の作品中歌詞からの引用である。
 (2006年7月31日の拍手メッセージによる情報

 
 
八雲
 
 [キャラクター]
 
 Phantasm Stage のボス。やくもゆかり
 「神隠しの主犯」
 春になると目が覚めるすきま妖怪。
 普段は余り動くことなく、代わりに式神を操り生活している。
 昼間はほとんどが睡眠時間で、寝ている間 藍はほったらかし。
 冬は冬眠する。「春眠も暁を覚えず」(藍談)
 ふと目が覚めて、すでに春であることに驚いても、またすぐ(二度寝の要領で)寝てしまうため
 目覚めては驚き、すぐさま寝、を繰り返して10日程も経ったりとかしてしまうらしい。
 古くから幻想郷に住みつく、強大な力を持つ妖怪。
 主に、あらゆる境界を操る程度の能力を持つ。
 
 「八雲」はExtra Stageの「八雲藍」の項目参照。
 出雲とか和歌とかに関連。
 2つ上の項目に述べた「小泉八雲」も関連するか。
 小泉八雲は作家活動以外に英語教師として教鞭をふるってもいたが、
 小泉八雲が勤めた同じ学校の後任に夏目漱石が赴任してきた、ということが2度あり、
 他にも小泉八雲と夏目漱石の共通性が挙げられたりする。
 これが「東方萃夢想」での八雲紫の技「漱石枕流」に関わるか?
 また、ZUN氏の同人CDに付属のストーリー、「少女秘封倶楽部」の
 結界・境目が見える少女、マエリベリー・ハーンとも関わるか。
 マエリベリー・ハーン(ラフカディオ・ハーン)⇔ 境界 ⇔八雲紫(小泉八雲)
 
 「」については、Stage2の「橙」の項に記したように、
 可視光の波長またはエネルギーにより、橙 <藍 <紫 のエネルギー準位。
 これ以外にも八雲一家ヒエラルキーの基準として
 何らかの意味付けがあるかもしれない。
 
 「」は、古代中国、ローマ帝国、律令時代の日本などでは、高位の色とされた。
 ローマ帝国を中心に、王位や最上位を表す色が紫とされ、貴族や第二位を表す色に藍が使われた。
 聖徳太子の冠位十二階・最上位も紫であった。
 一般には「優雅」「高貴」を表すことが多い色である。
 なお、孔子は、藍と紅の中間色であることから、紫は曖昧でどっちつかずと嫌った。
 
 境界を操り、境界に位置する、非常に強力な妖怪には、紫は適した名と思える。
 また、妖々夢の最初にたち帰るが、
 春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは 少し明かりてだちたる雲の細くたなびきたる。
 にも関連か。
 清少納言と言えば紫式部。(そうか?)
 源氏物語には紫の上が登場。
 光源氏に見初められ執着を持たれ、略取される。
 周囲には隠されながら、源氏の理想の女性に育てられる。
 源氏の正妻として扱われるようになり、初めて父親に行方不明の娘が源氏の元に居ることが
 知らされるのだが、親族側から見たらその間は、娘が神隠しにでもあったかのような心境だろう。
 あぁ、深読みしすぎ…。
 「神隠し」については後述。

 【改訂用の備忘録】
 紫色について補足。
 自然光には紫色は無く、赤色の光と青色の光を混ぜる必要がある。
 色相環では連続した色の変化の中に紫色も存在するが、
 自然の可視光のスペクトルでは、赤色の外側、菫色の外側は不可視である。
 (「色の名前」 角川書店刊、より)
 赤と青の境界 (紅がレミリア、青が幽々子とも言える) という意の他、
 可視・不可視、実在と幻想などとも解釈できる。(色と空の境界とかもアリ)
 
 荒俣宏の 「帝都物語」 におけるキーパーソンの一人が辰宮由佳理 (たつみやゆかり) である。
 物語終盤に、由佳理は生と死の境界、今と昔の境界で幻想の乙女として現れ、彷徨った。
 (参考:「帝都物語 第伍番」「同 第六番」 荒俣宏著、角川文庫)

 
 
ネクロファンタジア
 
 [音楽]
 
 八雲紫のテーマ。
 〜藍のテーマの編曲のつもりだったけど、割と別の曲に。
  こっちの方は、禍々しい感じが少し混じっています。
  というか、キャラ自体が禍々しさの塊みたいなもんです。
  今までのキャラの中でも、胡散臭い風貌、信用できない性格、非常識な弾幕。
  そういうキャラの曲なので、とても胡散臭い(笑)〜
 〜Necro-Fantasia 死の幻想曲
  素敵な響き。
  生きているうちは、死を味わうことが出来ない。
  死は常に生の幻想である。〜

 (曲解説より)

 
 
式神 「前鬼後鬼の守護」
 
 [スペル]
 
 中ボスとして登場する藍のスペルの一つ。ぜんきごきのしゅご
 橙の「青鬼赤鬼」の上位版。
 藍の左右交互に展開した大玉が、弾丸群を撒き散らしながら自機照準で飛来。
 
 Extra Stageの「青鬼赤鬼」参照。

 
 
式神 「憑依荼枳尼天」
 
 [スペル]
 
 藍のスペルの一つ。ひょういだきにてん
 橙の「飛翔毘沙門天」の上位版。
 進行方向への楔弾群撃ち出しに加え、後方へも楔弾群を放つ。
 
 荼枳尼天(茶枳尼天、荼吉尼天とも)は仏教の神。
 由来は梵語のダーキニーの音訳で、元はインドの女神。
 農業神、性や愛欲を司る神、という設定を経て、人肉や人間の心臓を食らう夜叉神とされた。
 中世日本では、霊狐信仰と関わり、狐を眷族とする福徳神として庶民に信仰された。
 左手に宝珠、右手に剣を持ち、白狐にまたがって空中を疾駆する天女の姿で描かれたりした。
 後代では稲荷信仰とも習合され、稲荷権現や飯綱権現と混同・同一視されるようになった。
 
 狐憑き、とあるように、狐や犬など小動物霊の憑依の話はあるが、
 憑依する側の狐である藍に、荼枳尼天が憑依した、というスペル。
 尋常とは思えない行動を行うことを、神懸かり的な、などと表現するが、
 神霊・神が人の身体に乗り移ることを「神憑り(かむがかり)」としたことからくる語。
 うん、あんまり関係無かった。

 
 
結界 「夢と現の呪」
 
 [スペル]
 
 紫のスペルの一つ。ゆめとうつつのしゅ
 藍の「仙狐思念」の上位版。
 紫から二方向に大玉が放たれる。
 一方からは仙狐思念の様に自機基準で楔弾が四角形に出現、
 もう一方からはすべて自機照準の粒弾群が出現、飛来する。
 
 うつつ)は、「(夢に対して)目がさめている状態。現実。」の意味。
 夢と現は、夢と現実、睡眠と覚醒、という具合。
 はっきり境界が引かれると対義関係で分離される。
 夢現つゆめうつつ)は「夢と現実。はっきり目覚めないで意識がぼんやりしていること」
 こちらは境界線上(紫)のあやふやな位置。
 紫の寝起き最初のスペルだから?
 
 は、「しゅ」と読むと、陰陽道で使われる概念で、主に言霊を指す。
 物事・事象や世界をとらえるために、まず概念が起こり、
 具体的な手段で理解をし、最後に認識や共通認識に至るだが、
 概念と認識の間を取り持つ、理解の触媒となるツールが言葉である。
 目やその他感覚で得られる情報を統合、区別・分析し明確な境界をもたらすものとも言える。
 生物、という言葉で自然界(世界)から無生物と生物が切り分けられ、
 動物、という単語で植物とは区別され、
 脊椎動物、哺乳類、霊長類、人間、と限定は進むがいずれにも境界は設けられる。
 どの境界も、意味と定義を前提とした言葉により区切られ、
 宇宙普遍の定理と言うわけではなく、人間視点の便宜上の区別として扱われるが
 人間の間では言葉だけで意味も定義も含め共通認識が成り立つ。
 個人個人の名前も、人間というカテゴリーから切出されるためのツールであり、
 名前が無ければ人間止まりで個人とはならない。
 戦没者の一人は、一般的に我々から見れば多くの死者の一人という認識だが、
 その任意の一人の名を知る者から見れば、その特定の個人が認識される。
 認識されなければ存在たり得ないが、認識さえあれば空想も概念も思念も主義も存在である。
 夢と現も、睡眠時のビジョンと覚醒時のビジョンとしての実感から呪を冠され、
 その明確な境界で区別されるが、その認識がない乳幼児が怖い夢を見て、目覚めても泣き続けたり、
 その境界に疑念を抱いた哲学的な人物が混乱に陥ったりする(胡蝶の夢)。
 
 また、を「じゅ」と読めば、のろいやまじないの他に、
 密教の陀羅尼(だらに)を意味する。真言というやつ。
 教えの精髄を凝縮させて含んでいるとされる言葉。
 教えの真理を記憶させる力、行者を守る力、神通力を与える力があるとされる呪文。
 訳経において意訳せず、梵語音写のまま唱える。主として長文のものをいう。

 
 
結界 「動と静の均衡」
 
 [スペル]
 
 紫のスペルの一つ。
 藍の「十二神将の宴」の上位版。
 自機照準で大玉が放たれ、途中で大玉と共に飛来した魔法陣(使い魔)がセットされる。
 魔法陣からは時計回りあるいは反時計回りに弾丸が打ち出され続け、しばらくすると消滅する。
 魔法陣がセットされる位置をうまく誘導するのがポイント。
 
 空手道・剣道・弓道・合気道などの日本武道や舞踊などで
 「静中動」「動中静」という言葉がある。
 静が極まって動となり、動が極まって静となる。
 静の中にあって動の気持ちを、動の中にあって静まった気持ちを、とも表現される。
 多くのスポーツでも共通であるが、正しい基本体、基本姿勢に重点が置かれ、
 構えとか自然体とかが重視されるのは、基本体に不自然があるとフォームが崩れてしまうからだ。
 基本体とは静中動とされ、全身がリラックスされていながら、
 しかし一分も隙は無く、瞬時に動に転じられることが要件である。
 不自然な構えは身体や筋肉に部分的な緊張を生じ、呼吸や思念に乱れを呼ぶ。
 静中動を基本として、動中静、静中静、動中動などの概念もあるようだ。 
 これらのルーツは太極拳。というか太極。
 「動中静あり、静中動ありと、無限に変化する陰陽の中に生成と発展があり、
 果てしない循環の中に調和と統一が保たれる」
 と、北宋の学者・周濂沃(1017〜1073)が太極図を描いて言ったそうな。
 太極図と言ったらアレだ、霊夢の陰陽玉、橙の飛翔毘沙門天や藍の憑依荼枳尼天のルート。
 混沌とした原初の宇宙であり、気の原始、万物の源となる本体が太極であり、
 形も動きもない太極に陰陽の二元が生じ、次いで四象(春夏秋冬)が生まれ、
 八卦(乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤)が現れたとする、宇宙生成論的概念。

 
 
結界 「光と闇の網目」
 
 [スペル]
 
 紫のスペルの一つ。
 藍の「狐狸妖怪レーザー」の上位版。
 自機狙いではないものの、狐狸妖怪レーザーを左右二組射出。
 弾丸群の広がりが大きく、それをレーザーの網目の中で回避する。
 
 ・網目 …「網地を作っている糸と糸とのすき間。あみのめ」
 
 網目とは、糸と糸の隙間の空間を指す。
 網の様に巡らされたレーザーの隙間は、光の無い闇の部分だが、
 スペル名から判断すると、光と闇の二成分で作られた網の、その隙間を指すと思われる。
 またも対極に位置する2つのものの間を取り持つようなスペル名で、
 境界が引かれれば、境界自体はどちらともつかない中立の立場であるがゆえであろう。
 
 と言ってもいろいろあるが、スペルで激しくレーザー網なため、ここは可視光で確定。
 それに対するは、光のささない状態、である。
 光子の存在が光、光子が存在しないところが闇であるならば、
 光子の振動を介在する「場」というか空間が光にも闇にも属することが出来る中性的概念か。
 光と闇で二極化できる世界も、世界の存在事態を包含した視野から見れば
 光と闇は網であり隙間が見て取れる…のか?
 あるいは、次の項に示す罔両(もうりょう)か。
 日向と日影の境目、光の回折現象。

 
 
罔両 「ストレートとカーブの夢郷」
 
 [スペル]
 
 紫のスペルの一つ。
 藍の「四面楚歌チャーミング」の上位版。
 サイドを固める粒弾の流れがあまりぶれなくなり、大玉も大振りな感じで
 「上位」とは言い切れないかも。
 レーザーで移動幅制限がかかるが、制限と言うほど狭くないか。
 
 一般認識では、ストレートは直球、カーブは変化球であるが、
 広義にはストレートも変化球である。
 投手によっては秒速40回転を越える、強烈なバックスピンがかかっているのがストレートで、
 バックスピンのため、ボールの進行方向下側は上側よりも空気抵抗が大きくかかり、
 これにより揚力が発生し、ボールは通常の水平投射よりも上向きに変化をする。
 つまり、普通に投げるよりも落ちない。だからまっすぐ飛来する様に見える。
 しっかりしたストレートは、シューッという音を立てて飛ぶが、
 それだけ空気抵抗が働いているということである。つまり、回転数と球速が大きい。
 カーブはかなりポピュラーな変化球。
 球速は遅いが独特の弧を描き、投手の利き腕と反対の方向に曲がる。
 直球と緩急をつけるために(特にスローカーブなど)よく用いられる。
 
 これまでのスペル名同様に対義関係を見るならば、
 一般認識で直球と変化球、緩急差で緩と急、あるいは速と遅、
 という具合だろうか。
 前述の様にどちらも変化球であり、バットの芯をはずす狙いで
 握りや投げ方などで微妙にスピードや軌道を変えて投げられたりもする。
 基本形の握り・投法が、投球の軌道や回転方向の制御となっており、
 その基本形が目安として表現される以外は厳密な球種の線引きはない。
 握りも投法も多様なため、ストレートとカーブの中間のような
 魔球・ストーブとかも有りかもしれない。(^^;
 
 夢郷は、夢境「夢の世界。夢路」をもじったものか。
 紫スペルでは「境」を「境界」の意味で用いたかったため
 同音同義の漢字を当てはめたのではないだろうか。
 
 罔両は、もうりょう
 魑魅魍魎の魍魎とは異なる。
 って、京極堂が言ってた。
 以下、「もっけ」という漫画から引用。()内は私の補足。
 「荘子」は知らんか?古い中国の思想家だ。(無何有之郷の人)
 老子を祖とする道家の人間だな。老荘思想ってやつよ。
 彼の思想書である「荘子(そうじ)」の内篇「斉物論」にこんな寓話がある。
 罔両問景(もうりょうかげにとう)。
 ここで言う罔両つうのは、影の外っ縁に出来る薄い影の事だ。(光の回折現象)
 此奴が濃い方の影に文句をつけた。
 「御前は歩ったかと思ったら止まるし、座ったかと思ったら立ちやがる。
  全く何でそんなに自主性が無ぇんだ」ってな。
 したら濃い法の影はこう答えた。
 「そりゃ確かに私は主人の動くまんま動いてるかもしれない。
  けれども主人にしてみたって私と同じなのかもしれないのだぞ。
  私のこの動きもつまりは蛇の腹や蝉の羽みたいなモンで…
  悪んぞ然る所似を識らん、悪んぞ然らざる所似を識らん――
  (いずくんぞしかるゆえんをしらん、いずくんぞしからざるゆえんをしらん)
  私達にはどうして動くのかなんてわかりはしないのだ」
 取りようは様々さ。屁理屈とも後ろ向きとも映るかもわからんがな
 頭の隅くらいには置いとくといい。こういう考え方もあるんだ。
 自分は他者との関わり合いの中で生まれてくる…多くの他者があっての自分だろ。
 そこが抜けてる自分なんてな
 全く罔両みてェじゃねェか。

 【改訂用の備忘録】
 上では野球の球種に注目したが、対義関係とはならなかった。
 一方、直線と曲線のストレートとカーブと見れば対義関係となり得る。
 曲と直、すなわち曲直。
 まがったこととまっすぐなこと、邪なことと正しいこと。それらの織り成す世界。
 (2008年5月3日の拍手メッセージを参考に致しました)

 
 
罔両 「八雲紫の神隠し」
 
 [スペル]
 
 紫のスペルの一つ。
 藍の「プリンセス天狐 -Illusion」の上位版。
 自機狙い含む六方向レーザーと同時に、同じく自機狙い含む三方向弾群、
 そして全方向に蝶弾群放射の3セットを同時に放ち、紫の姿は消える。
 しばらくのち、自機位置に紫が出現し、同じ攻撃を見舞う。
 
 境界が認識されるならば境界は中立・中性に存在し、
 二極化される事象もより大きな一つの事象に内包される成分である。
 陰陽とか言うと、陽と陰、明と暗、魂と魄、などと二元論に扱われがちだが、
 太極という存在から現れ出でた以上は、どちらも太極に属するものであり、
 太極は陰陽どちらに属するでもなく、陰と陽の視点から見れば中性的である。
 境界に属し、境界を操るということは、境界に分けられる二極どちらかを操るだけではなく、
 そもそもはその境界自体、中性的なそれを操るということ。
 二つの成分が呪、認識で区切られるならば、呪を操作し概念を越え、
 二つの成分が均衡、物理法則で区切られるならば、均衡を操作し時空を越え、
 二つの成分が網目、存在の有無で区切られるならば、網目を操作し世界を越える。
 すきまの向こうは、彼女以外の者とは概念も時空間も世界も異なる、まさに異界であり、
 彼女しか認識も理解もできない場所である。
 まぁ、術者しか理解できない場所に隠れるという点では
 イリュージョンも同じと言えば同じ。ただ、次元が違うだけ。文字通り。
 
 神隠しは、子供などが不意に行方不明になり、探しても容易に見つからなかったり、
 茫然自失あるいは何らかの異常な状態で発見されたりするもの。
 昔話・怪談の類として全国各地に多数神隠し譚がある。
 以下、甲田学の「Missing 神隠しの物語」からの抜粋。
 (Missing作品中に登場する書物の内容より)
 そもそもこの種の類話は世界中で見られるものである。
 ヨーロッパなどにも妖精に子供が攫われる妖精譚(フェアリーテール)が数多く、
 目に見えない「妖精の市場」や、中へ入ると消えてしまう妖精の踊りの輪
 「妖精の輪」(フェアリーリング)といった異界譚に属する伝承も含めれば、
 これら「神隠し」系の類話は膨大な数に上り、一つのジャンルを形成している。
 (中略)
 これらの「昔話」は世界のおよそかけ離れた土地において、
 全く同じモチーフの伝承として伝わっている場合がある。
 (中略)
 中にはアジアを通じてモチーフの伝播が証明できる物もあるが、
 筆者のような空想の徒には事実としてこのような事件が存在し、
 こういった存在が世界中に偏在することの証拠のように思われて、楽しくてならないのである。

 
 本作の橙(Stage2)に関わりのある「遠野物語」にも、
 神隠しの項があり、「寒戸の婆(さむとのばあ)」が描かれる。
 若い女性がある日行方知れずとなり、三十年後に極めて老いさらばえて現れたという話。
 
 柳田國男は「山の人生」にて次の様に述べている。
 我々の平凡な生活にとって神隠しほど異常なる予期しにくい出来事は他にないにもかかわらず、
 単に存外に頻繁でありまたどれもこれもよく似ているのみでなく、
 別になお人が設けたのではない法則のごときものが一貫して存するらしいことである。

 
 小松和彦の「神隠しと日本人」「神隠し−異界からのいざない」、
 松谷みよ子の「現代民話考1」などに、多くの神隠し譚が採修・とりまとめられている。
 多くは天狗・隠し神・狐狸妖怪・山の神の仕業とされるが、
 神隠しに遭う瞬間の目撃事例はなく、生還者の証言だけが拠り所であるが、
 そもそも神隠しの後だけでなくその前から
 知能あるいは精神に異常が見られるケースも少なくなく、証言の信憑性は薄い。
 って、妖怪変化が犯人としている証言に対してこういうつっこみもどうだろう、自分…。
 で、その神隠しですが、実はすきま妖怪が犯人でした、というお話。

 
 
罔両 「禅寺に棲む妖蝶」
 
 [スペル]
 
 紫のスペルの一つ。
 藍の「アルティメットブディスト」の上位版。
 青卍時の弾丸が蝶弾になり、中心から飛び出したのちにじわじわ引き返す仕様。
 赤卍時の中玉が三連蝶弾になり、中心寄りを強いる。
 
 禅寺は、禅宗の寺院。
 禅が菩提達磨がインドから中国に伝えられ、中国で禅宗が確立された。
 インドのディヤーナの音写で、もとは瞑想の意味。
 心を調整・制御して統一に導く。
 六波羅蜜という、菩提が修めなくてはならない六種の実践徳目が大乗仏教以前からあり、
 この六徳目を得て涅槃の彼岸に到る。
 檀那(布施)・尸羅(戒)・羼提(忍辱)・毘梨耶(精進)・禅那(禅定)・般若(智慧)である。
 禅定は禅の同義語である。
 禅宗といっても禅定ばかりに励むのではなく、根底には六波羅蜜がある。
 禅宗は釈迦一代の教説を誹謗するもの、という非難もあるが、
 般若波羅蜜の実践を思想以前の根本から追及した真摯な仏教であるともされる。
 般若波羅蜜は、此岸と彼岸といった二項対立的な智を超越することを意味するが、
 瞑想による超越ということでなく、
 心念の起こらないところ、つまり概念の分節以前のところに帰ることを目指したのである。
 あぁ、何か強引に紫の「境界」に繋げてしまった気がする。
 
 日本において禅宗の普及以前の美術的な価値観は王朝の貴族趣味に左右され優美華麗を求めたが、
 禅宗の普及により静的な美、自然における静寂と調和が認められてきた。
 そのような背景の中、禅宗や茶道に馴染みの深まる花として椿が挙げられる。
 椿は日本原産種で、古来から日本人に愛されてきた。
 花びらが個々に散らず、萼の部分から丸ごと落ちる点が特徴的である。
 散り落ちてもなお地において花姿をとどめる落椿(おちつばき)も美しい。
 京都の龍安寺(臨済宗)には室町時代の椿が残っている。
 椿の一品種に「胡蝶侘助(こちょうわびすけ)」があり、
 地蔵院などいくつかの禅寺にも植わっている種である。
 禅寺に棲む妖蝶とは、この胡蝶侘助、ひいては椿を指すか。
 
 昔から椿の古木は化けると言われ、女に化けるという話もある。
 女が旅人を蜂に変え、自らが宿る椿の花に誘い込み殺す、という
 神隠しの類型ともとれる話がある。
 その目撃者が寺の和尚に相談すると
 「街道を旅する者が突然姿を消すという話はきいていたが、
  その女の仕業であったか」と和尚は言う。

 
 
魍魎 「二重黒死蝶」
 
 [スペル]
 
 紫のスペルの一つ。
 藍の「ユーニラタルコンタクト」の上位版。
 ユーニラタルでは自機狙いの蝶弾と一方向旋回の針弾から構成されたが、
 二重黒死蝶では自機狙い弾は無く、蝶弾二成分が一気に散開し、左回り右回りの
 二方向旋回をし、スイングバイで再射出と同時にナイフ弾二成分が一気に散開する。
 ナイフ弾も左右二方向にそれぞれ旋回し、その射出と同時にまた蝶弾群が広がる。
 
 死蝶については幽々子(Stage6)の「生者必滅の理」参照。
 黒死蝶は検索かけても金田一少年ばかり出てくる。
 Whodunit ってことで、いいか。(よくない)
 
 魍魎は、魑魅魍魎(ちみもうりょう)の魍魎。
 魑魅魍魎で「いろいろの化け物。さまざまの怪物」の意味。
 しばしば狐狸妖怪と同じ様に使われる。
 魑も魅も魍も魎も化け物の意である。
 山野河川に出没する妖怪の総称ともされる。
 魑魅は「山林の精気から生じ、人を迷わすというばけもの」
 魍魎は「山・水・木・石などの精気から生じて人をばかすという怪物」
 「和漢三才絵図」を成した寺島良安は、
 魑魅は山神、魍魎は水神としている。

 【改訂用の備忘録】
 魍魎
 魑魅魍魎と繋げて云う場合は、狐狸妖怪と大差のない意味の成語。
 しかし、魍魎は旧来瞭然せず、字義が問題。
 魍魎の表記は色々あって、虫偏がつく場合もある。
 鬼繞を取って罔両と書き表す場合もあり、そうすると別の意味が発生する。
 (こちらは 「ストレートとカーブの夢郷」 参照)
 魍は山川の怪神、魎も山川木石の精の意とこじつけられるが、如何にもすっとしない。
 魑魅魍魎と並べて、魑魅が山のモノだから、魍魎は水のモノとしたくなるのは人情だ。
 また、「史記」の孔子の言を元に、魍魎は木石の怪と云う説が広く罷り通ってしまった。
 山川の精で、水怪で、木石の怪、これじゃあ棲み分けがきっちりしている妖怪世界の
 横紙破りだ。それに殆どの化け物に具体的な形態が与えられている中国で
 魍魎だけはいい加減だ。
 困ったことに、別の系統の魍魎の伝承もあり、古代中国の帝の子供であるという。
 三歳児の人間くらいの大きさで、眼が赤く、耳が長く、体は赤みがかった黒、
 頭にはしっとりとした黒髪を湛え、人間の声を真似て人を惑わす――
 魍魎はつまり本当は何だか判らない。判らないのに、いつの間にか
 けだものになってしまったんだ。
 (京極夏彦著 「魍魎の匣」 講談社文庫、より)

 
 
式神 「八雲藍」
 
 [スペル]
 
 紫のスペルの一つ。
 藍の「橙」の上位版。
 橙が画面をジグザグに横断したのに対し、藍は大きく上中下の画面端へと移動する。
 
 Extraのボス戦、Phantasmの中ボス戦と来てPhantasmのボス戦にも登場。
 こき使った分こき使われる、そんな中間管理職(違う)

 
 
人間と妖怪の境界」
 
 [スペル]
 
 紫のスペルの一つ。
 藍の「狐狗狸さんの契約」の上位版。
 
 主人公たちが踏み越えようとしている境界。
 能力の強大さはすでに通常の人間の域を出ており、
 あとは遅老長寿と常時カニバリズムが身につけば立派な妖怪か。
 魔理沙の丹の精製と咲夜の日常業務からすれば
 妖怪化も時間の問題かも。
 本質は人間であるとしても、認識上の区切りは妖怪。
 その境界領域に、その能力の強大さから足を踏み入れているということ。
 
 境界は、土地のさかい目、物事のさかい目、という意味だが、
 「きょうがい」と読むと仏教用語となる。
 人間の感覚器官と心の認識能力の対象(眼耳鼻舌身意の六根に認識される色声香味触法の六境)、
 自分の力が及ぶ範囲、報いとして得られた境遇、その人の置かれた状況(境涯)などを意味する。
 人間と妖怪の棲まう幻想郷自体をも意味するか。
 境界きょうかい)を操ることは境界きょうがい)にその力を及ぼせるわけで、
 その気になれば世界も幻想郷も終焉に導くことが出来るのが八雲紫という妖怪なわけで。

 
 
結界 「生と死の境界」
 
 [スペル]
 
 紫のスペルの一つ。
 藍の「飯綱権現降臨」の上位版。
 ただでさえ地獄弾幕なのに、それに高速蝶弾追加。
 
 Stage6の「ボーダーオブライフ」の項を参照。
 
 臨死体験あるいは近似死体験と呼ばれるものがある。
 事故や病気などが原因で死に直面した際に体験するとされる現象。ニアデス。
 三途の川や花畑などの死後の世界あるいはそこへ通じるトンネルを見たり、
 体外離脱と呼ばれる体験をするなどのある程度一定のパターンが示されるようである。
 現実体験であるとする説もあるようだが、
 幻覚(夢に近いか?)や脳内信号の異常発信に基づくものとも考えられる。
 神経細胞はかなりのエネルギーを必要とするもので、
 心停止などで脳虚血に陥ると、神経細胞は次々に細胞死を起こしてゆく。
 その際の生理活性物質あるいは神経伝達物質由来の異常シグナルあるいは
 低酸素応答など分子生物学的機構が存在するのかもしれないが、
 それらが視覚野などで起これば、実際には見ていない光を脳が誤認するという具合。
 しかし、脳虚血がそのまま続いて神経細胞の大部分に復帰不能の死が訪れれば
 総括的に人間個体の死につながるわけで、生と死の境界をさまよう、といった表現は
 あながち間違いでもなく、生と死の境界線というよりも境界領域であると思われる。
 そんな生と死の境界=臨死体験と、顕界と冥界の結界修復をかけての戦い
 あるいは生者が冥界に入り込んで戦闘していることとが合致。
 
 ここでいう生と死は人間あるいはそれを含む動物種以外には適用しないほうがよい。
 微生物はもとより、植物にも生命現象を統御する脳のような器官が無いためだ。
 西行の墨染桜は、一つの枝が地面につき立てられて、それがいずれ生長し開花まで到るが、
 それはひとえに植物細胞の分化全能性に由来し、死の状態から息を吹き返したわけでは無い。
 挿し木や接ぎ木という現象はこの原理に基づく。
 いったん枝として分化した細胞であっても、
 おかれる環境が変われば根の細胞に変化できるわけで、
 これは人間の肝細胞を培養しても肝細胞であるのとは異なる。
 (人間の細胞の分化全能性は、受精卵からES細胞までの間しか保たれない。)
 植物の死は個体の大半の細胞が死に至ることであり、人間の生と死の境界とは異なる。
 西行妖の開花が見たければ、枝を折って挿し木し、新たな西行妖を長い年月待てば良い。
 植物は手軽にクローンを作成できるのだ。
 まぁ、西行妖にして西行妖にあらず、妖力も伴うかは不明だけど。

 【改訂用の備忘録】
 式神を操るということで、八雲紫と陰陽道はすんなり結び付くが、
 それに加えて生と死の境界をも自在となると、陰陽道における最高クラスの神、
 人の寿命を司る泰山府君が思い浮かぶ。
 関連は不明。

 
 
紫奥義 「弾幕結界」
 
 [スペル]
 
 紫のスペルの一つ。
 紫本体に当たり判定は無く、ボスの姿は見えるが回避特化弾幕。
 画面中を魔法陣が旋回し、楔弾群をズラリと並べ周囲を何重にも包囲してゆく。
 並べ終えると楔弾群が一定パターンの弧を描いて中央に集中しそのまま散開してゆく。
 結界は全部で5パターン。
 すきま認識能力とパターン記憶能力の勝負。
 
 結界については、霊夢の「二重結界」の項を参照。
 ここまで読んで下さって、ありがとうございます。
 どう見ても長文です。
 本当にありがとうございました。


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Extra / Phantasm // Acknowledgements & References

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