白玉楼階段の幻闘
[タイトル]
Stage5のタイトル。
結界を越えた先の、寂静。
春の空気と、冷たい石質の長い長い階段。
冥界の霊達がざわめく気配。
白玉楼(はくぎょくろう)は、文人・墨客が死後に行くという楼閣。
唐の詩人
李賀の臨終の際に現れた天帝の使いが、
白玉楼が完成したこととそこに李賀を召すことを告げたという故事にちなむ。
書言故事、唐詩紀事などの中国の書にある。
「白玉楼中の人となる」とは文人が亡くなることをいう。
本作中の白玉楼の主である幽々子の生前に関する設定は
あまり明らかでなく、文人・墨客であったかは定かではない。
Stage5以降、というか白玉楼周辺のステージでは、「和歌」が挿入されることから
生前の幽々子の文筆活動を示唆するものとも解釈できる。
とはいえ、妖夢のような武人(文人の対義語)も生息しているので
住人に文人か否かの厳密な線引きはなされていないものと考えられる。
でも、妖夢は幻想郷(冥界)の生まれだし、
人間が顕界から冥界へと死んで移る場合だけふるい分けが働くのかもしれない。
タイトルと共に以下の字幕も現れる。
"The girl lived in the world after death."
"They were a
half of a phantom and
human..."
「死後の世界に住まう少女」
「彼女(ら)は、霊と人のハーフであった。」
妖夢は幽霊と人間のハーフだが、「妖夢」としての半霊半人が"一体"ではなく、
半霊と半人の見掛け"二体"が「妖夢」である。
半分のリンゴと半分のリンゴは、2切れであると同時にリンゴ1個分であるという感じ。
願わくは 花の下にて 春死なむ
その如月の望月のころ
[歌]
Stage5のタイトルと共に現れる和歌。
院政期〜鎌倉時代初期にかけての歌人、西行(1118-1190)の歌。
西行法師としても知られ、百人一首にも選ばれている。
旅の中にある人間として、あるいは歌と仏道の二つの道を歩んだ人間としての人生は、
後鳥羽院をはじめ宗祇・芭蕉に至るまで後世に大きな影響を与えたことで知られる。
家集に「山家集」「山家心中集」「聞書集」があり、
上記の歌は「山家集」に収められている。
願わくば、(陰暦)2月の満月の春に、桜の満開の下で死にたいものだ。
西行が60代の折に詠んだとされる歌で、
西行が愛した「桜」を盛り込んだものである。
西行の歌には桜を題材に、散る桜を無常に譬えたものが多い。
当時の風潮として、仏教の無常の考えが浸透していた事から珍しいことではないが、
宮廷歌人が技巧を凝らし美を追求したのに対し、
若くして出家し野に下った旅人である西行は、
散る桜の象徴する無常を越えた独自の歌風を持ち、評価されていた。
如月(2月)望月(15日)は釈迦の入滅の日であり、
平安時代から釈迦の遺徳を偲ぶ習慣があった。
当時はこの歌を受けて、深い歌であると評価されたが、
同時に「願わくは〜死なむ」といったストレートな表現は
一部宮廷歌人には評価を躊躇わせる節であった。
その約10年の後に、かつて詠んだ歌のごとく、
如月の花の下で16日という日に西行が亡くなったことで、
人々は脅威と深い感動を覚えたという。
現在では、西行と言えばこの歌!と筆頭に挙げられる。
東方妖々夢 〜 Ancient
Temple
[音楽]
Stage5のテーマ曲。
〜日本人に根付く懐かしさを精一杯と、何者かが迫り来る焦燥感を
ほんの一寸、出してみました。〜
〜古の寺院。
(Stage4の後)突然、空気の温度が変わる曲です。
最も東方妖々夢という感じの曲なので、このタイトル。〜
(曲解説より。一部改変)
全部解説されちゃっています。(汗)
Ancient Temple =古の寺院
魂魄
妖夢
[キャラクター]
Stage5のボス。こんぱくようむ。
「幽人の庭師」または「半分幻の庭師」
幽霊と人間のハーフで、西行寺家の専属庭師兼お嬢様の警護役。
見かけ、人間の少女と白い魂のペアに見えるが、
実質は半人と半霊で、あわせて"1"である。(単位不詳)
一振りで幽霊10匹分の殺傷力を持つ長刀「楼観剣」と
人間の迷いを断ち切ることができる短剣「白楼剣」の二刀流。
主に剣術を扱う程度の能力を持つ。
西行寺家の恐ろしいほど広い庭に備わる桜の中で、
妖怪桜の西行妖(さいぎょうあやかし)ばかりが例年花を咲かせることがない。
それは西行妖が何者かの亡骸と共に封印されているためであるが、
西行寺のお嬢様は興味本位で西行妖の満開と復活する何者かを見たく思い、
妖夢に幻想郷中の春を集めさせる。
しかし、西行妖があと一息で開花するというところで、
幻想郷の春を結集させ尽くしてしまった。
そんな時、ふと人間が舞い込んだ。
僅かばかりの春を持って。
・魂魄 …「死者の魂。霊魂」
「魂」は精神を司る気、「魄」は肉体を司る気、とされる。
「魂魄」はまさしく精神と肉体のつながりから、幽霊と人間、
つまりは半霊半人の妖夢自身を指すと。
「妖夢」は辞書に記載無し。
妖夢は妖しい夢、妖怪関連の夢というイメージ。
あるいは同音異義語では
・要務
…「重要なつとめ。大切な仕事」(=春集めの任)
・用務 …「果たすべき仕事。なすべき務め」(=お嬢様のお世話&庭師の仕事)
・洋鵡
…「オウム目インコ科の鳥」(=怪鳥?)
また、「妖夢」は、菊地秀行(ZUN氏の好きな作家の一人)の作に、
「魔人」シリーズ第三部タイトルが「妖夢」、他に「妖夢特急」(ようむエクスプレス)がある。
ついでに、剣について。
白楼剣は「人間の」迷いを断ち切るが、冥界にある。
未練を残し、自縛霊や亡霊にもなりかねないような、
人間としての気持ちが強い幽霊の迷いを断ち、幽霊・冥界の住人とするのだろうか。
白玉楼の名を受けて白楼剣か。
白楼は白い館、というところで、紅楼(紅魔館)に対して白楼(白玉楼)という構図かな。
そして、既に死んだ後である幽霊をさらに切り殺してしまう楼観剣。
東方花映塚では「成仏」の表現が使われるが、幽霊を仏の身へと強制シフトさせるものか。
冥界(あるいはより大きく輪廻とか)をより高みから観るから楼観剣?
・楼観 …「物見の高殿。ものみ」
広有射怪鳥事 〜 Till
When?
[音楽]
妖夢のテーマ。ひろありけちょうをいること。
〜広有とは言うまでも無く、
怪鳥退治で有名な隠岐次郎左衛門広有の事です。
イメージが謎めいた妖怪、って感じだったのでこんな感じ。
Till
When?
はただのダジャレなので気にせず(汗)〜
(曲紹介より)
「太平記」巻十二の、隠岐次郎左衛門広有の怪鳥退治にちなむ。
1334年、夜ごと紫宸殿の上空に現れ、「イツマデモ、イツマデモ」と鳴き飛び回る怪鳥を、
鵺(ヌエ)退治の話に倣い、隠岐次郎左衛門広有に命じ射落とさせた。
この怪鳥は、江戸時代の妖怪絵師、鳥山石燕により「以津真天(いつまで)」と名付けられた。
戦乱や飢えで死んだ人の死体をいつまでこのまま放置するのか
との呪詛を込め「イツマデ」と鳴くと言われる。
雷光を従え、炎を吐く。頭部は人間、体は蛇、曲がった嘴に乱杭の歯、
剣のように鋭く尖った足爪という醜悪な姿の怪鳥。
広有は、武勇の他、深謀遠慮の武士とも言われる。
怪鳥を射落とす際にも、矢が紫宸殿(天皇の住まい)の屋根に刺さったら縁起でもない、
との考えからわざわざ鏑矢を用いている。
ちなみに当時の天皇は後醍醐天皇で、
建武の新政とか南北朝とかのキーワードと共に日本史で習う。
1334年は建武元年で、建武の新政の呼び名はこれにちなむ。
保元の乱の前にも怪鳥退治(源頼政の鵺退治)の説話があったことから、
広有の怪鳥退治も、のちの南北朝時代の兆候であったのではないかと
滝沢馬琴が「燕石雑志」にて考察している。
怪鳥としては「平家物語」の鵺が有名だが、
こちらは、頭は猿、体は狸、尾は蛇、手足は虎。
他にうぶめ(産女・産婦・姑穫鳥)、かるら(迦桜羅・迦桜荼)も怪鳥の類である。
till
when?は「いつまで?」ってことで、以津真天の鳴き声のもじり。
さて、妖夢のテーマが何故「広有射怪鳥事」なのかがよく分からず。
広有の武勇と忠義を、妖夢が幽々子に仕えていることになぞらえたものか、
妖夢の強力な攻撃も、幽々子戦の前哨(兆候)にすぎないということか、
西行が出家前に使えていたのが鳥羽院ということで怪鳥を、というだけか
「ようむ」を辞書でひくとある洋鵡をもって以津真天となぞらえたものか…。
【改訂用の備忘録】
主人の住まう屋敷に向けて飛来する招かれざる客。
その飛ぶ者は、イツマデ、イツマデ、と長引く冬に春を探してやって来た。
主人を守らんと、庭師が怪鳥退治に挑む。
(2007年10月14日の拍手メッセージに拠ります。)
幽鬼剣
「妖童餓鬼の断食」
[スペル]
妖夢のスペルの一つ。ようどうがきのだんじき。
画面上部で、画面端からもう一方の端へ妖夢が一瞬間に走り、剣閃が現れる。
剣閃のうちの何箇所かが弾源となり、各弾源から全方位に楔弾群が放たれる。
妖夢が走る前、少しの間はすべてがスローになり、その間に隙間を見出し抜ける必要がある。
・幽鬼 …「亡霊、幽霊。ばけもの、おばけ」
・餓鬼 …「餓鬼道に落ちた亡者。餓鬼道のこと」
・餓鬼の断食
…「当然のことをいかにも善行らしく言い立てること」
餓鬼は、餓鬼道に落ちた者を言う仏典用語で、生前に贅沢をした者が餓鬼道に落ちるとされる。
常に飢えと乾きに苦しみ、食物を手に取ると火に変わってしまうので決して満たされることがない。
痩せ細り、腹部のみが丸く膨れ上がった姿で描かれる。
餓鬼道は、六道(りくどう、ろくどう)の一つで、
六道には他に地獄道、畜生道、修羅道、人間道、天道がある。
生命は死後、六道のいずれかに転生し、生死を繰り返す(六道輪廻)と言われる。
「妖童」は、餓鬼が子供の蔑称・俗称に用いられることから「童」か。
「幽鬼」は、女神転生シリーズで、餓鬼が「幽鬼」に分類されることからか。
餓鬼剣
「餓鬼道草子」
[スペル]
妖夢のスペルの一つ。がきどうぞうし。
Hard
でのみ使用される、妖童餓鬼の断食の上位版。
画面中部で、画面端からもう一方の端へ妖夢が移動し、剣閃が現れる。
餓鬼・餓鬼道については前項参照。
スペル名は「餓鬼草子」にちなむ。
餓鬼道の業苦を描いた絵巻物、鎌倉時代の作、作者不詳。
「地獄草子」などとともに「六道絵」とされる。
原本は京都国立博物館に所蔵される国宝。
痩せ細り、腹部のみが丸く膨れ上がった餓鬼と、餓鬼道の様子が描かれる。
餓鬼にも様々あり、炎を吐く者、食べた物を吐く者、死肉を喰う者、何も食えない者、
鷲に目玉をくりぬかれる者、膨れた腹を突かれ肉を食われる者、鬼にいたぶられる者など。
餓王剣
「餓鬼十王の報い」
[スペル]
妖夢のスペルの一つ。がきじゅうおうのむくい。
Lunatic
でのみ使用される、餓鬼道草子の上位版。
妖夢の位置は更に下方に、弾速の違いがより際立つ。
十王は、地獄を統べる10人の裁判官で、
それぞれ決められた審理担当日(初七日、49日目など)に順繰りに死者を裁く。
恵心僧都源信の「往生要集」に十王信仰に基づいて記される。
すべての審判を受けるのではなく、OKが出ればそこで極楽浄土へ。
説によっては審理と同時にそれぞれが担当する地獄も巡り、
最終的(10番目)には悪行が放出されきって、善になるというものもある。
十王の監督下で六道を巡る、という話もある。
仏教では、もともとは死後の審判を閻魔王一人が担当していたが、
のちに現実っぽさを反映して地獄の組織の複雑化と官僚制が敷かれ、
「十王」の組織が定着することになった。
十王の五番目に閻魔王があるが、
十王を指して十人の閻魔(おそらく裁判官の意味で)とする場合もある。
初七日(7日目) 秦広王(不動明王)…冥界入り口の関所
二七日(14日目) 初江王(釈迦如来)…三途の川の最初の入り江
三七日(21日目) 宋帝王(文殊菩薩)…三途の川の二番目の入り江
四七日(28日目) 五官王(普賢菩薩)…三途の川の第二と第三の入り江の間
五七日(35日目) 閻魔王(地蔵菩薩)…地下500由旬
六七日(42日目) 変成王(弥勒菩薩)
七七日(49日目) 太山王(薬師如来)
百か日(百日目) 平等王(観世音菩薩)
一周忌(一年目) 都市王(勢至菩薩)
三回忌(三年目) 五道転輪王(阿弥陀如来)
餓鬼道は、地下500由旬の閻魔王の国にあるとされたり、人間界と天界の間にあるとされる。
これを受けて、餓鬼十王=閻魔王と考えることもできるだろうか…。
地蔵菩薩の足元には餓鬼界への入り口が開いているらしい。
餓王は餓鬼の王、餓鬼道の王などを意味する造語か。
獄界剣
「二百由旬の一閃」
[スペル]
妖夢のスペルの一つ。にひゃくゆじゅんのいっせん。
画面頂部の弾源から速遅2タイプの大玉が各方位にばら撒かれる。
妖夢が画面端からもう一方の端へ瞬時に移る際に剣閃が生じ、
閃上の大玉が複数の小弾、弾丸、中玉に変わり異なる運動成分で襲いかかる。
妖夢が移動する直前にはやはり全体がスローになる。
・由旬
…「古代インドでの距離の一単位。帝王の軍隊が一日に進む距離と言われる」
三途の川の川幅が40由旬と言われたり、
無間地獄が地下二千由旬、縦横八千由旬と言われたり、
竜宮城は海底500由旬にあると言われたり、
西行寺家の庭が幅200由旬であると言われたりする。
1由旬=約14.4km(9マイル)と換算したりすることが多いようだが、
現在のインドでは6.6kmとされているらしい。
倍以上の差が…。(中には40kmとか60kmとかいう説もあった)
200由旬=1320kmあるいは2880kmというところか。
本州縦断(の往復)くらいの距離かな。(てきとう)
獄界は地獄界を指す語か。
地獄道は六道の一つで、源信の「往生要集」に描写される様に
八大地獄十六別所合わせて百三十六地獄があるとされる。
獄炎剣
「業風閃影陣」
[スペル]
妖夢のスペルの一つ。ごうふうせんえいじん。
Hard
でのみ使用される、二百由旬の一閃の上位版。
剣閃が三本生じ、その分だけ分裂弾も細かく多く。
・業風
…(仏教用語)「善悪の行為の報いに生じる禍福を風に例えたもの、地獄に吹く大暴風」
・閃影
…「瞬間的に見える影」
どんなに神速であれ、物体が移動すればその分だけ空気を押し、それにより風が生じる。
二百由旬を一太刀にする神速の上位であるため、
姿形も影が瞬間的に閃く様にしか捉えられず、また、
圧倒的な風圧も伴う。ソニックブーム。
その陣の内に居て、生きて居られる者など存在しようか…。
業風は、
「往生要集」の第六地獄・焦熱地獄の別処「闇火風」を思い浮かべればよいだろうか。
風の吹き荒れる場所で、罪人は暴風に巻き上げられ、空中を上も下も無くさまよい、
突風に身体を砕かれ塵となる。身体は又元に戻り、突風に砕かれるを延々繰り返す。
「獄炎」のイメージからすると八大地獄の最下層・阿鼻地獄?
獄神剣
「業風神閃斬」
[スペル]
妖夢のスペルの一つ。ごうふうしんせんざん。
Lunatic
でのみ使用される、業風閃影陣の上位版。
剣閃が五本生じ、画面中の大玉はすべて分裂弾群に変化する。
神速の斬撃はすでに神の閃きを思わせる域に。
地獄に有り得ない幻として神の姿を見せる美技あるいは妖技?
畜趣剣
「無為無策の冥罰」
[スペル]
妖夢のスペルの一つ。むいむさくのみょうばつ(めいばつ)。
妖夢が画面端からもう一方の端へ(直前はやはりスロー)瞬時に移動、
それに伴って縦に10本の剣閃が現れる。
剣閃の上下端から弾源が走り、粒弾群を傘型に放ってゆく。
・無為無策
…「計画が何もないこと。対策を立てられずただ手をこまぬくこと」
・冥罰 …「神仏が懲らしめに下す罰。天罰」
畜趣は、六道の一つ、畜生道、畜生界を意味する語。
六道は六趣とも呼ばれる。
畜生道では、罪人は畜生に生まれ変わり、言葉で通じることができず、
強い者にいつ食べられるかとびくびくして過ごすことになり休むことができない。
人間に鞭打たれてこき使われ、殺されて肉を食われる。
毎日を無為に暮らす非生産的な一生を送った者の末路は畜生道ということか。
あわれなりニートくん。
修羅剣
「現世妄執」
[スペル]
妖夢のスペルの一つ。げんせもうしゅう、げんぜもうしゅう。
Hard、Lunatic
でのみ使用される、無為無策の冥罰の上位版?
弾幕の性質が違うので上位と言うのは語弊があるか。
画面左右から次々に弾丸が飛来する。
妖夢から下方に垂れた剣閃に弾丸が触れるとそこに捕らわれ、
一旦画面すべてがスローになった後に、絡めた分の弾丸を自機に向け放つ。
・現世(げんせ、げんぜ)…(仏教用語)「現在世の略。この世。現在の世」
・妄執
…(仏教用語)「迷いによる執着。成仏を妨げる虚妄の執念。」
修羅は、六道の一つ、修羅道を指す。
常に人と争い、怒りで人を苦しめた人は修羅道に落ち、阿修羅となる。
阿修羅は古代インド神話のアスラに由来し、「神でない者」「醜いもの」の意味。
帝釈天に敵対し、常に戦争を仕掛けるため、
全然休む間もなく、また、戦争でやられぬよう用心しなければならない。
現世への執着心が成仏を妨げ、冥界での滞在期間を延ばしてゆく。
弾幕イメージは「蜘蛛の糸」?(釈迦の慈悲というよりも獄卒の悪戯だが)
白楼剣であっさりと迷いを断ち切るは慈悲か安易か。
人界剣
「悟入幻想」
[スペル]
妖夢のスペルの一つ。ごにゅうげんそう。
画面底部に剣閃を作り、妖夢は画面上部へ。
剣閃からは順次粒弾が湧き上がり、妖夢からは自機照準で中玉群が放たれる。
・悟入 …(仏教用語)「悟りの境地に入ること」
・幻想
…「現実にないことを思い描くこと、また、その思い」
悟りを開くことを菩提、開悟、阿耨多羅三藐三菩提、無上正等正覚とも言う。
悟りを開いた者を仏陀、仏、覚者と呼ぶ。
仏教の悟りは、真理に目覚めることを指し、迷いの反対である。
仏教の究極目的が悟りであり、智慧を体とし、
煩悩のために続く輪廻から分別の心と智慧の力でもって解脱する。
事実を如実に観察することで真理を悟り、そこには思考も言葉も無い。
悟りの境地を「涅槃」といい、煩悩が制御され、とらわれのない心の静けさがある。
煩悩の数は通俗的には108だが、時代や宗派などによりまちまちで、
多いものでは約64000にも細分化されているそうな。
悟入幻想は「悟りの境地に入ることを思い描くこと」つまり
まだ「悟りには到らない」状態か「悟りを夢見る」状態か。
「悟ったと思ったが気のせいだった」という解釈もあり?
人界は六道のひとつ、人間界を指す。(仏教語では人界を「にんがい」と読む)
四苦八苦の仏教語が指す「苦」は人間界の苦。
「生老病死」の四苦に「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五陰盛苦」の四苦を加えて八苦。
人世剣
「大悟顕晦」
[スペル]
妖夢スペルの一つ。だいごけんかい、あるいは、たいごけんかい。
Hard
でのみ使用される、悟入幻想の上位版。
・大悟
…「迷妄を脱して真理を悟ること。完全円熟な悟りを開くこと」
・顕晦
…「現れることと隠れること。世に出ることと世を逃れること」
一人の人間視点で、悟りが得られたり得られなかったりすることを指すか、
人間界視点で、まれに大悟を成す者が顕れることを指すか。
前者は悟入幻想常習者っぽいので、悟入幻想の上位版ならば後者か。
悟りを開いたことを世に吹聴せずにひっそりと解脱する人も居そうだし。
人世は、世の中、世間を意味する。また、人生と同じ意味にもなる。
ここでは人界の上位に人世とし、漢字の界
< 世に基づくものと推測する。
人神剣
「俗諦常住」
[スペル]
妖夢のスペルの一つ。ぞくたいじょうじゅう。
Lunatic
でのみ使用される、大悟顕晦の上位版。
・俗諦
…(仏教用語)「世間一般で認められる真実。世間的な真理。世諦(⇔真諦)」
・常住
…(仏教用語)「永遠不変なこと。変化しないで常にあること。(⇔無常)」
・俗諦常住 …(仏教用語)「世俗的真理がそのまま不滅の真理であるとする考え」
人間中心に世界の事象を捉え、真理をつかもうとしても、到るは俗諦であり、
言葉と思考のコミュニケーション能力を備える人間であるがゆえに真諦に到るは困難である。
いちおう世間の人が認めているからそれも真理だけど、
真理の立場から見られた世間の真相とか世俗の立場から見られた世間の姿にすぎず、
真理の立場から見られた世界の真相である真諦とは違うんだよなぁ〜、という感じか。
物理学の究極理論程度では全人類解脱・世界平和には到れないくらい俗諦と真諦は解離している。
が、人間中心で観測すればそれが真理なんだよ。
客観と主観くらい、科学と仏教でいう「真理」は認識が違うけれどもね。
天上剣
「天人の五衰」
[スペル]
妖夢のスペルの一つ。てんにんのごすい。
楔弾群が異色5葉を形成しばら撒かれる。
スローの間に飛来する五色の楔弾をかいくぐる。
・天人 …(仏教用語)「天上界に住む者」
・五衰
…(仏教用語)「天人の死に際し現れるとされる五種の衰えの相」
天人も六道に属し、あらゆる迷いを捨て切ってはいないが、
苦の少ない境遇にあり、音楽を奏し天華を降らせ瓔珞をなびかせ虚空を飛行する。
天上界は六道の一つ。
楽しいところで、食べ物に困らず、病気も無く、天人は皆長寿。
しかし、長生きで無量の快楽を受ける天人であっても
六道に住む以上は死があるという、仏教の無常の理を表すのが天人の五衰。
五衰には異説あるが、涅槃経では衣服垢穢・頭上華萎・身体臭穢・腋下汗流・不楽本座とされる。
衣服垢穢=衣類に垢がつく
頭上華萎=頭上の花冠がしぼむ
身体臭穢=身体が臭くなる
腋下汗流=脇の下に汗が流れる
不楽本座=本来いるべき座に居る事を楽しまない
これら五衰は「大衰相」とされ、必ず死に至る相とされる。
作家・三島由紀夫は、豊餞の海シリーズの「天人五衰」編の執筆後、割腹自殺したことで有名。
天界剣
「七魄忌諱」
[スペル]
妖夢のスペルの一つ。しちはくきい、あるいは、しちはくきき。
Hard
でのみ使用される、天人の五衰の上位版。
楔弾群が異色7葉を形成したのち散開する。
・忌諱
…「嫌って避けること、忌み嫌うこと、畏れはばかること」
道教では、人間の魂は3つの魂と7つの魄から成り、
魂は精神的要素、魄は肉体的要素である。
陽である魂が、濁鬼である陰の魄を制御することで、人間の生命活動が行われる。
人間が死ぬと、陽の霊である魂は天に帰り、死体に残る7つの魄もやがて地に還る。
7つの魄を詳しく述べると、
尸狗(貪欲の鬼)
伏矢(好食の鬼)
雀陰(好淫の鬼)
天賊(偸盗を好む鬼)
飛毒(妄想の鬼)
除穢(人を悪の道に向かわせる鬼)
臭肺(煩悩を起こさせる鬼)
といった濁鬼なのだそうな。
また、七魄まとめて死体・髑髏・幽霊を意味することもある。
いずれにせよ天の陽属性とは対極の陰であり、七魄は忌諱される。
【改訂用の備忘録】
七魄は、喜怒哀楽憎恐浴、ともされる。
(藤木稟著 「陰陽師
鬼一法眼 <三> 今かぐや篇」 光文社文庫
または 「Wikipeida」 の霊魂の項より)
天神剣
「三魂七魄」
[スペル]
妖夢のスペルの一つ。さんこんしちはく。
Lunatic
でのみ使用される、七魄忌諱の上位版。
自機照準3方向二連大玉追加。
魂・魄や七魄については前項に記した通り。
三魂は胎光・爽霊・幽静であり、
天の属性で陽の気、延命に関わるのが胎光、
地の属性で陰の気、災いに関わるのが爽霊、
位牌に宿る陰の気、死に関わるのが幽静。
三魂により七魄を制御するのが人間の生命活動であり、
陰と陽の調和(というより陽によるコントロール)が重要ということで天神剣?
陽の気の三魂なくして天道は成らず?だんだん意味不明発言になってきた。
魂魄妖夢の姓、魂魄にちなんで「三魂七魄」を最上位に持ってきただけで
天道と直接には関係しないか。
【改訂用の備忘録】
三魂は、天魂、地魂、人魂、あるいは、主魂、覺魂、生魂、
または、元神、陽神、陰神、や、天魂、識魂、人魂、とされることもある。
(「Wikipedia」
の霊魂の項より)
藤木稟の 「陰陽師 鬼一法眼 <三> 今かぐや篇」 では、精、霊、気、とされる。
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