四季映姫・ヤマザナドゥ [キャラクター] 小野塚小町エンディングを見るとExtraにて使用できる。 四季映姫エンディングを見ると普通に使用できるようになる。 しきえいき。 「楽園の最高裁判長」 幻想郷から三途の河を隔てて対岸の地、彼岸に住む閻魔様。 四季映姫が名、ヤマザナドゥは役職名である。 地獄において死者を裁く役割の神。 物事の善悪の基準は自己の内に有り、 彼女の裁く罪とは過去の実現象とそれにまつわる因果、 また、そこに縁ある者も含め膨大な因子を複雑に処理されたものに基づく。 死者の善悪を見分け、罪の軽重を一目で見定める。 死者は罪を咎められ、その後、地獄・天界・その他のいずれへ 送還されるかの判決が下される。 その決定に迷いやグレーゾーンは無い。 白黒はっきりつける程度の能力を持つ。 小町が三途の河を渡して送り届けてくるはずの魂がなかなか運ばれて来ない。 怪しく思って(魂が来なければどうせ暇だし)幻想郷へと足を運んでみると 目に映るのは季節感もなく精一杯いろとりどりの花々。 桜、コスモス、向日葵、百合、竹の花、睡蓮、鈴蘭、彼岸花、 そして、あの紫の彼岸桜…… 六十年周期の裁きの年。 害ある事態では無いが、知らぬ者にすれば異変であり 大騒ぎする人間や妖精や一部の妖怪も解らないではない。 しかし、異変は異変、小町のサボり癖や目の前の者の罪は別件である。 彼女の性格は、それを見過ごさない。 閻魔(えんま)は、仏教において地獄を支配する王。 「焔魔」「炎摩」とも書かれる。 また、「夜摩」「夜魔」(やま)、「閻羅(えんら)」とも呼ばれる。 閻魔王、閻魔大王、閻魔天、夜摩天などとされることもある。 妖々夢では「夜摩天」と言われていた。(咲夜・Phantasm) 本来は古代インドの「リグ・ヴェーダ」賛歌にまで遡る 古い神格・ヤマで、人祖ともされる人類最初の死者。 それゆえ死者の国の王として冥府に立ったとされる。 古くは死者を見守る者、あるいは、良い行いをした死者を天界へ送る神であったが、 後には死者を裁いて地獄へと落とす神となり恐れられた。 ヤマが中国へと伝わり、道教の冥界思想と習合、 さらに後には十王信仰と結び付き、 地獄の裁判官の一人として、死者を裁く役割を担う者とされた。 地獄については、東方紅魔郷;冥符「紅色の冥界」に多少記した。 また、十王についても、東方妖々夢;餓王剣「餓鬼十王の報い」に記載した。 モンゴル帝国(元)の夏期の都、上都のことをザナドゥという。 内モンゴル自治区多倫北西に遺跡が残る。 旅行記を通じてマルコ・ポーロが西欧に伝えた。 1816年にイギリスの詩人が幻想を詩に書いた作品において 歓楽の都として表現して以来、幻想的な都、あるいは桃源郷と同義とされるようになった。 ザナドゥの名を用いた作品は文学・音楽・演劇を中心に数多い。 上記2段落を踏まえると、ヤマザナドゥという役職名は、 ザナドゥ(東洋の楽園)を管轄するヤマ(閻魔)といったところか。 つまりは、二つ名の通り「楽園の最高裁判長」。 外からの魂も裁くようなので楽園としての幻想郷のみを担当しているわけでもなく、 「もし私が貴方の裁きを担当すれば」と言っている事から 東洋全体を単独で切り盛りしているわけでも無さそう。 まぁ、そもそもモンゴル帝国は、史上最大の帝国として 東ヨーロッパや西アジアまで勢力が広がっていたので ザナドゥを東洋に限局するのはどうよとか、その上、日本は含まれないぞ、なのだが、 そこは、まぁ、拡大&縮小解釈して東方ってことで。マルコ・ポーロ風味。 四季にちなむ語を以下にいくつか挙げる。 四季 …春夏秋冬の四つの季節。昭和前期の詩雑誌名。ビバルディの協奏曲集。ハイドンのオラトリオ。 四季絵(しきえ) …春夏秋冬の自然や人事・風俗の移り変わりが一目で見られる様に 屏風や障子などに描いた絵。 四季咲き(しきざき) …季節を限らず、何回でも花が咲くこと。また、その植物。 四季桜(しきざくら) …ヒガンザクラの一品種。10月ごろから開花しはじめ、春に最もよく咲く。十月桜。 自然・音楽・文学の他、 こじつけになるかもしれないが、閻魔が一目で死者の生前を見抜く様や 花映塚の季節感の無い花の異変、無縁塚の彼岸桜に関連させることもできる。 また、森博嗣の作品に登場する天才工学博士・真賀田四季(まがたしき)の存在も看過できない。 森博嗣のデビュー作でありレッドマジックも関わる「すべてがFになる」に登場するほか、 四季博士を主役に据えた「四季シリーズ」などもある。 四季は、彼女の言うところの「自然の状態を言い表す」その一要素。 他には三精(三月精あるいは騒霊三姉妹の帽子飾り)、五行(パチュリー)、 掛け合わせて60が自然の全ての組合せパターン。 映姫の由来は不明。 「かぐや姫」の漢字表記のひとつに「赫映姫」がある。 「えいき」と同音では、 英気 …「いきいきと働こうとする気力。すぐれた気性、才気」 盈虧
…「月が満ちたり欠けたりすること。物事が栄えたり衰えたりすること」 鋭気
…「鋭い気性、気勢」 英気は小町のサボり癖の対極としての気力および真賀田四季のような才気、 鋭気は白黒はっきりつける、自己の内に判断の軸をもつ芯の強さ、 盈虧は…えっと…赫映姫? ところで、古代インド神話のヤマの話に戻るが、 ヤマがさらに上位の神の一・シヴァの怒りを買い、殺されてしまうという話がある。 この話、ヤマがいなくなった世界体系では死ぬ人間がいなくなってしまい、 世界は人間達で溢れかえって大混乱となってしまう、という点で花映塚に似る。 結局、困った上位神はヤマを生き返らせ、事態は収拾する。 ちなみに、白黒はっきりつける彼女に迷いは一切無い。 「私は竹林でも迷うことは一切無い」
参考 「キャラ設定.txt」 「Wikipedia」(閻魔、ザナドゥ) 「Yahoo!辞書」(閻魔、夜摩、ザナドゥー、四季、四季絵、四季咲き、四季桜、英気、盈虧、鋭気) 「神魔精妖名辞典」(閻魔、ヤマ) 「Dictionary of
Pandaemonium」(閻魔天、ヤマ)
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無縁塚 [ステージ] 映姫の対戦時ステージ。むえんづか。 大地には彼岸花が群生し、見上げれば彼岸桜が覆い被さる塚。 一時期に相容れない花の共咲きは、異変の様相を判然とさせる。 罪深き紫の桜に彩られた縁者無き死者の眠る地。 冷たい石に見上げられながら、少しずつ少しずつ、罪が許されてゆく。 ・無縁
…「縁のないこと。関係のないこと。地縁・血縁などの縁者がないこと。 (仏教用語)誰のためというような対象の区別がなく、すべて平等であること。 (仏教用語)前世に仏・菩薩と因縁を結んでいないこと。救われる機縁のないこと。」 ・無縁塚
…「弔う縁者のない死者のための墓。万人塚。無縁塔」 三途の河の川幅に対して、そこを渡ろうとする死者の 「縁」というファクターは極めて重要な変数となる。 他者との関わりが希薄だったり行いが悪いようでは 川幅は無限大とも思えるほど増大し、渡河不可能に陥る。 また、そのような魂は、財産として死後に所持する金銭も乏しく、 一般に死神からは見向きもされない。(一部例外を除く) そういった無縁の魂は、無理に渡河を試みようと川に飛び込んで 生息する水生生物に食されてしまうか、三途の河原に佇む他は無い。 行き場を失った魂は、虚無へと風化するか、無縁の魂として溶け合い個を喪失するか… 彼岸桜は、3月中旬、春のお彼岸の頃から桜に先駆けて咲く。 バラ科の落葉小高木。 桜の中では最も長寿な品種の一つ、エドヒガンに近縁。 国の天然記念物である日本三大桜は 山梨の樹齢2000年ともいわれるエドヒガン、神代桜(じんだいざくら) 岐阜の樹齢1500年以上の彼岸桜、淡墨桜(うすずみざくら) 福島の樹齢1000年以上のベニシダレザクラ、三春滝桜(みはるのたきざくら)。 彼岸桜、枝垂れ桜、染井吉野や先述の四季桜などはエドヒガン群の品種である。 また、桜は一般的に日本の国花の一つとされる。 本ステージでは妖精達(リリーホワイト含む)は全て黒い衣装に身を包んでいる。 これは、裁判官が着用する黒の法服にちなむものだろう。 この黒には、どんな色にも染まらない色であるため 「どんな意見にも左右されない」という意味合いがあるといわれる。
参考 「Yahoo!辞書」(無縁、無縁塚、彼岸桜) 「Wikipedia」(サクラ、神代桜、淡墨桜、三春滝桜、裁判官) 「季節の花 300」(彼岸桜)
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六十年目の東方裁判 〜 Fate of Sixty Years
[音楽] 〜四季映姫・ヤマザナドゥのテーマです。 明らかにラストっぽい曲です。 ラストはメロディアスな曲が多いのが東方の特徴。 今回はさらに日本+再生+桜の国、というイメージを盛り込みました。 力強さと儚さが同居するこの曲は、未だ見られない最も美しい桜の国の為の曲です。 全体的にお馬鹿なこのゲームも、この曲だけは強い思いで。〜 (曲解説より) 花映塚のリリースされた2005年は、終戦から60年を数えた年である。 ポツダム宣言受諾の詔勅が発せられたのが1945年8月14日、 戦争終結を象徴する玉音放送が8月15日(終戦の日) 軍隊への停戦命令が出されたのが8月16日、 降伏文書に調印したのは9月2日であった。 花映塚のリリース日は8月14日であった。 GHQによる保障占領は1945年9月からの出来事である(マッカーサーの厚木入りは8月30日)。 東方永夜抄の野符「GHQクライシス」のスペル解説には 「もはや手の施し様がない位に崩壊気味」と表現があり、 本曲のイメージに盛り込まれる「再生」の到達点は 「未だ見られない最も美しい桜の国」であり、現在の日本では無い。 1995年近辺には、戦後50年という節目もあり 五十年目の○○と題する本がいくつか出版されるなどした。 「六十年目」を含む書は少ないが、 胡桃沢耕史の「六十年目の密使」、植木九州男の「六十年目の四季」などがある。 後者は副題が「自然と人間のはざまで」であり、なんだか意味深。 六十年の運命。 1939〜1945年、第二次世界大戦 特に1941〜1945年はアジア・太平洋戦争である。 1884年(明治17年)、清仏戦争 1831年、天保の大飢饉 1782〜1788年、天明の大飢饉 もちろん、これらの間にも東アジア圏で 大量死に直結した出来事は多々あるけど。 さて、アジア・太平洋戦争に関わる裁判と言えば、 極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判である。 世界大戦での日本の降伏後、戦争犯罪人としての日本の指導者などを 連合国が裁いた裁判。 1946年1月19日、極東国際軍事裁判所条例が定められ、一部改正の後、裁判が行われた。 1946年4月29日、起訴。(昭和天皇の誕生日) 1946年5月3日、審理開始。 1948年11月4日〜12日、判決言い渡し。 1948年12月23日、死刑執行。(当時の皇太子の誕生日、現天皇誕生日) 大筋では戦勝国が敗戦国を裁く、極端な表現をすれば一方的な裁判であり、 連合国からの判事の一部からは判決に部分的あるいは全面的に反対する意見書も出されるなど 裁判に関しては大小種々の問題が指摘されている。
参考 「Wikipedia」(終戦の日、極東国際軍事裁判)
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徳の説示 [ショット] 映姫のチャージショット。とくのせつじ。 「前方集中ショット」 自機の両脇から前方に連射される黒水晶弾。 ・徳
…「精神の修養によってその身に得たすぐれた品性。人徳」 ・説示 …「わかりやすく説き示すこと」 徳を分類した細目、個々の徳を徳目という。 儒教の徳は、仁・義・礼・智・信の五徳である。 重要な規範的価値は、生まれによってではなく その人の徳の現れた実際の行動の結果によって 待遇が決せられるべきであるとする。 古代ギリシアの徳は、叡智(思慮)・正義・勇気(忍耐)・節制の四元徳である。 これらはプラトンの「国家」に述べられる、知恵・勇気・正義・節制にまで遡る。 アリストテレスはより包括的に、人はこれらの徳を完全に追求する為に すべてを習得し徳の調和を志すべきであるとした。 キリスト教の徳は、信仰・希望・愛である。 鏡は光子を反射し、鏡面に対して反対の位置にも実物と同一の物が存在するかのような 虚像を「映す」現象を司る。 古来より神秘的なものとしてとらえられる傾向は極めて強く、 実際に生活に役立てるよりも、呪具や祭祀に用いる祭器としての役割を担っていた。 古墳から出土する銅鏡、三種の神器のひとつの八咫鏡など、 日本古来にももちろん深く根ざしていたものである。 地獄の閻魔王庁の閻魔大王の隣(あるいは閻魔大王の手に)は 浄玻璃鏡(じょうはりのかがみ)があるとされる。 事物の真の姿を映し出す、霊力を持った鏡の一種で、 閻魔大王の前に引き出された人間の業を全て暴き出すとされる。 浄玻璃とは、曇りなく透き通った水晶またはガラスを言う語である。 玻璃(はり)(玻[王黎]、頗梨、とも書かれる)とは元々 仏教での七宝の一つ、水晶を指した語で、 転じてガラスの異称としてや火山岩の非結晶質など 石英全般にも用いられることもある。 本ショットが黒水晶であるのは、この玻璃=水晶に由来し、 閻魔の浄玻璃鏡に関連するものと思われる。 黒色の意味合いとしては、前々項の法服と同じものであろう。
参考 「Yahoo!辞書」(徳、徳目、浄玻璃、浄玻璃の鏡、玻璃) 「Wikipedia」(徳、石英)
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弾幕裁判 [ショット] 映姫のEXショット。 「弾幕の罪を表面化する」 相手フィールドに発生する黒い霧。 それ自体に攻撃性は無いが、弾が霧を通過すると その弾に先行する形で同じ方向へとわずかに弾速の速い笏弾を放つ。 笏(しゃく)は、束帯着用の際、右手に持つ細長い一尺ほどの板を言う。 もとは備忘のために笏紙(しゃくし)をはるためのものだったが、 のちにはもっぱら威儀を整えるための具となった。 束帯は平安時代以降の公家の装束だが、 笏自体は中国発祥で、推古・飛鳥時代には伝来しており、 例えば聖徳太子は笏を持った朝服姿でよく描かれた。 地獄の最高裁判長である閻魔大王も専ら右手に笏を持った姿が描かれる。
参考 「Yahoo!辞書」(笏) 「Wikipedia」(笏、束帯) 「風俗博物館」>日本服飾史 資料
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天知る 地知る 我知る
人知る [カットイン] 映姫のカードアタック時カットインに書かれる。 「天知る、地知る、我知る、人知る」 あるいは、「天知る、地知る、我知る、子知る」など。 いわゆる「四知」。 「後漢書(楊震伝)」にある。 楊震が王密のさし出すわいろを断った時の言葉。 誰も知らないだろうと思っていても、 天地の神々は知っているし、私も君も知っている。 悪事は必ずあらわれるものである。隠し事は露見するものだ。 人間界で罪を立証されず、法で裁かれずとも 閻魔様には一目で容易く見抜かれてしまう。 そもそも重要な因子は「縁」であり、 いかな人間界と言えど法に触れなければ何をしても良い訳ではない。 法律のような規則、国家における規範よりも より根源で個人においての規範である道徳や倫理に沿って行動し 善き特質を備えてゆく必要がある。 実際に業を看破する、夜摩天の(浄玻璃鏡の)能力と 「徳の説示」の性質を併せて表す言葉である。
参考 「Yahoo!辞書」(天知る、地知る、我知る、人知る) 「Wikipedia」(楊震)
【改訂用の備忘録】 「十八史略・東漢」 に見られる
「天知、地知、子知、我知、何謂無知」 に由来。 さらに元ネタは 「後漢書・楊震伝」 の
「天知、神知、我知、子知、何謂無知」。 (2006年10月31日の拍手メッセージのご指摘に感謝)
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罪符 「彷徨える大罪」 [スペル] 映姫のカードアタック、チャージ2目盛および3目盛。さまよえるたいざい。 相手フィールド中央程に発生した弾源が横方向へと移動しながら砲塔を巡らせて弾を撒く。 チャージ2目盛では、小弾主体に粒弾をいくつか交えて撒く。 チャージ3目盛では、すべて粒弾であり、弾源に弾幕裁判が重なって移動するので笏弾も発生する。 「天知る
地知る〜〜」で有名な清廉の政治家・楊震の その最期は、政治的謀略に絶望しての服毒自殺であるとされる。 文化や宗教によっては、自殺は大罪である。 西洋では、自殺者には葬式が行われないなどの社会的な制約が課され 教会の墓地に埋葬も許されなかったこともある。 正式な葬儀を経ない死者の魂は、カロンに選ばれることが無く ステュクス(アケローン)を舟で渡してもらえる機会が無い。 目的に達することの無い悠久の順番待ちを続けるのみである。 それでも百年も河岸をとぼとぼ彷徨えば、カロンもようやく乗せる気になってくれるらしいが。 人は人の罪を裁き、刑を執行する。 大罪に対する、大義名分のある大罪。 まぁ、閻魔様は人ではないので関係ない。 縁者無き死者を大罪と見立て、三途の河を渡る事ができなくて彷徨う様か。 大罪を犯し、閻魔様に無間地獄へと落とされて 地獄を彷徨う亡者のエナジィか。 案外、1つめに挙げた大罪に対する刑の執行を皮肉った説示とも こじつけることはできるだろうか。 大罪は、読んで字のごとく大いなる罪。 有名なところではキリスト教の伝統的な「七つの大罪」。 傲慢・嫉妬・憤怒・怠惰・強欲・暴食・色欲。 これは、4世紀のエジプトの修道士の著作に著される 八つの枢要罪、暴食・色欲・強欲・憂鬱・憤怒・怠惰・虚飾・高慢、の 一部改変と順序立てが行われたもの。 仏教では四重禁(殺生・偸盗・婬・妄語)や 五逆(殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧)が重罪である。 キリスト教の聖典に書かれるエピソードの1つにキリストの磔刑がある。 イエスがユダヤ教体制を批判したため磔刑に処されたというもの。 死刑の権限を持たないユダヤ人指導者達はイエスをローマ帝国へ反逆者として渡し イエスは十字架あるいは杭に磔にされ公開処刑された。 キリスト教はユダヤ教から派生した、現在では世界最大の信者数を誇る宗教であり、 その直接的な起源は紀元1世紀、イエスの死後に起こった弟子の運動である。 派生後は弾圧を受けていたキリスト教だが、313年にはローマ帝国に公認され、 392年になるとローマ帝国はキリスト教以外の宗教を禁止するに至る。 一方で、ユダヤ人はローマ帝国に反乱を鎮圧されて以降はほとんどが ヨーロッパを中心に世界に散らばり、弾圧・迫害と悲劇の歴史を辿る。 キリスト教の教義においては、 キリストの磔刑は、救い主であるイエス・キリストが人類をその罪から救うために 身代わりに磔になったものとされるが、一方で、 罪人として辱められ殺されたとするイメージも根強く、 ユダヤ人に対する深い反感につながっているものと考えられる。 大罪に穢れたユダヤ人は世界各地に離散し彷徨うばかりである、と。 上記のエピソードに根差し、中世ヨーロッパで広まったキリスト教の民間伝承に 「彷徨えるユダヤ人」がある。 刑場に赴くイエスが道中の家屋に休息を求めたが、 これを拒絶しなじるという「大罪」を犯した家人が 神罰あるいは呪いを受けたものとする伝説。 キリストの再来、すなわち「最後の審判」の日まで 故郷と安息を失い、永遠に死ねない身体で地上を彷徨う運命を負う。 彷徨える大罪とラストジャッジメントは密接なのかもしれない。 (上記文章は2006年10月2日に頂いた拍手メッセージに依る所が極めて大きい。多謝)
参考 「Wikipedia」(七つの大罪、自殺、罪、楊震、キリストの磔刑、 キリスト教、ユダヤ人、彷徨えるユダヤ人) 「Wikipedia(英語)」(Wandering Jew) 「WikiArc」(四重禁、五逆) 「幻想世界神話辞典」(カロン)
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審判
「ラストジャッジメント」 [スペル] 映姫のボスカードアタック。 相手フィールドに送り込まれた映姫の幻影が、 赤・青2色4本ずつのレーザーをウィング様に展開し収束、紫レーザーとして自機照準で照射したり、 自機基準で8WAYの笏弾を連射したり、 小弾と粒弾を交互に4層、やや高速で放射したりする。 Last
Judgement. 「最後の審判」 世界の終末にメシアが出現し、死者を悉く蘇らせて裁きを行い、 天界へ昇る者と地獄へ堕ちる者とに分けるとする思想。 それが最後の審判である。 終末論的な思想はゾロアスター教の教義に元々由来すると言われ、 後にユダヤ教からキリスト教・イスラム教に引き継がれ この3つの宗教において重要な教義となっているものである。 神や絶対者の審判を経て、選ばれた人間を除いて世界はリセットあるいは破壊されるとする 終末思想に通じるものであるが、一方で 例えば一般的なキリスト教の終末論はイエス・キリストの復活と最後の審判から成り 世の救済が目的のキリスト教では一般に待望されるものである。 ミケランジェロの作品など宗教画に描かれる事からも宗教的ウェイトは大きい。 ミケランジェロの「最後の審判」では、向って左に天界行き、右に地獄行きと 中央上方のメシアにより人間が裁かれ篩い分けられており、 右下には櫂を振りかぶる地獄の渡し守・カロンの姿も描かれる。 本スペルの特色であるレーザーは、この絵画に似た様相かもしれない。 画面上部で展開される二成分の色調は分かたれる二つの界を意味し、 未断の魂には判決前なので、どちらとも成り得る紫の光が裁きとして降り注ぐ。 もちろん、判決を受けずに天界に至ろうとしても どちらが天界かは不明で、かつ、触れればアウトの二重のセキュリティ。 さて、件の最後の審判では、全ての死者を蘇らせて裁く。 死者を蘇らせても、墓下から這い出てくるのは白骨死体なのだが、 そこは預言者エゼキエルが何とかしてくれる(肉と皮膚を施し、霊を吹き込む)と 旧約聖書のエゼキエル書37章に書かれる。 終末論で言えば、善と悪がメギドの丘で最終決戦を繰り広げるハルマゲドン、 あるいは、北欧神話の神族や巨人族が戦うラグナロク。 特にラグナロクでは、神や巨人は命を落とし、太陽と月は飲み込まれ、 あらゆる命が消えてゆく。 スルトも炎の剣「レーヴァテイン」を携えて参戦、 その放たれた炎が世界を焼き尽くすとされる。 妹様…
参考 「Wikipedia」(救世主、最後の審判、終末論、ハルマゲドン、ラグナロク)
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